グラクソ・スミスクライン株式会社が運営する喘息情報ウェブサイト「Zensoku.jp」にて、当HP編集長・二宮清純がナビゲーターを務める対談シリーズ「二宮清純のゼンソク人間学」が好評配信中です。幼い頃から喘息に悩まされてきた二宮が、病気を克服して活躍しているスポーツ選手、元選手と対談。喘息をいかに乗り越えるかというテーマで話を進める中で、この病気への理解を深め、患者さんを勇気づけることを目指しています。今回は同シリーズの締めくくりとして、元スピードスケーターの清水宏保さん、NPO法人相模原アレルギーの会の理事長を務める北島芳枝さん、そして喘息の専門医で自身も喘息と戦ってきた永田真先生との対談を実施。その前編を公開しました!

 当サイトでは対談の一部を特別にご紹介します。
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 吸入ステロイドの普及を

二宮: 私は3歳の時に小児喘息を発症しました。当時は喘息をコントロールするという知識もなく、症状はずっと改善されませんでした。それが数年前、清水宏保さんと対談をした際に、喘息はひどくなってから治療をするのではなく、コントロールすることが大切だと学んだんです。おかげで治療のやり方を変えることができ、だいぶ症状は軽減してきました。
 清水さんは喘息を抱えながらスピードスケートという非常にハードな競技で、見事、五輪の金メダルを獲得しました。これは本当に快挙であり、我々、喘息患者にも希望を与えてくれるメダルでした。清水さん自身はどのように喘息をコントロールしたのでしょう?
清水: 高校を卒業するまでは民間療法のみで薬は一切使わなかったんです。そもそもスピードスケートを始めたのが喘息を少しでもコントロールしたいという動機がありましたから。当時は発作が起きても我慢をしてトレーニングをしたりしていました。運動療法である程度、健常者のレベルまで改善できるでしょうが、レース前夜に発作を起こしたら対応しきれない。それで20歳ごろから薬を使って発作を出さないように症状をコントロールする治療法に変えました。

二宮: 北島さんはどのような症状だったのでしょうか。そして相模原アレルギーの会をつくったきっかけは?
北島: 私の場合もみなさんと同じ小児喘息でした。大人になると症状は一時、緩和したのですが、35歳頃に風邪を長引かせて、そこから再び悪化しました。父も喘息でしたので、そのすすめで自宅近くの国立相模原病院(現 国立病院機構相模原病院)にかかるようになりました。当時は苦しい状態が一生続くんだろうかとか、治療に対する不安をずっと抱えながら、入退院を繰り返していたんです。その中で病院の先生方が喘息の勉強会などを開いてくださっていたので、自分で喘息を自己管理することの大切さを少しずつ学んでいきました。同じ時期に、国立相模原病院のアレルギー・喘息患者会が誕生して入会し、今に至るという状態です。現在は、吸入ステロイドで治療を続け、風邪さえひかなければ喘息であることを意識しなくてもいいところまでコントロールできています。

二宮: 今、清水さん、北島さんのお話にあったように、喘息の治療法は発作を抑えるのではなく、発作が出ないようにコントロールすることが大切なのですね。永田先生ご自身も喘息患者だと伺いました。
永田: そうです。僕は東京の下町育ちですけど、重い喘息で子どもの頃は寝たきりでした。東京五輪もメキシコ五輪もベッドの上で見ていましたね。この4人の中で一番、症状は重いかもしれません。

二宮: 当時は喘息でお亡くなりになる方も少なくなかったと聞いています。
永田: 近年は研究の成果もあって治療法も進歩し、喘息死は大幅に減少してきました。また、私が大学病院で研修生をやっていた1980年代は、まだ入院しなくてはいけないような重い患者さんもいましたが、今では入院する方も少なくなっています。
 やはり、この点は吸入ステロイド薬の貢献が大きいと言えるでしょう。ただ、まだまだ患者さんのお役に立てる余地はある。喘息死も減ったとはいえ、今なお年間およそ2,000人の方が亡くなっています。もっと各地域、各病院で普及を図らなくてはならないと感じています。
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 後編は5月10日に更新予定です。どうぞお楽しみに!
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