6二宮: 主に3番を任された山田哲人選手はトリプルスリー(打率3割2分9厘、本塁打38、盗塁34)を達成しました。本塁打、盗塁、最高出塁率の3部門でリーグトップ。昨年の成績をさらに上回る活躍です。3番への起用がうまくハマったのではないでしょうか?
杉村: 本人はずっと1番を打ちたがっていました。しかし、今年はホームランも多くなっていたので、後半戦からは3番で固定して使い続けました。とはいえ、まさかここまで打ってくれるとは……。期待以上の結果を残してくれましたね。

 

二宮: 山田選手を二軍時代から指導されていますが、やはり当時から打撃面で光るものがありましたか?
杉村: 正直、ここまで成長するとは全く想像もしていなかったんです。彼がまだ二軍にいる時に「オマエがホームラン王を獲れるわけないんだから、もっと広角に打てよ」と指導していたくらいですよ。しかし、今年ホームラン王を獲りましたからね。よく哲人には「オレの目が間違っていたよ」と話しますね(笑)。彼の活躍は本当に嬉しい誤算です。

 

二宮: ホームラン王に加えて盗塁王も獲得。打撃面だけでなく、走塁面でもチームの14年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献しました。昨年の盗塁数は15だったので倍以上増えていますね。
杉村: 昨年は打つだけという感じでしたが、今年は「走・攻・守」のすべてが良かった。走りに関しては、昨年の秋季キャンプで、三木肇作戦コーチ(兼内野守備走塁)が彼を指導してくれたのが大きかった。彼は現役時代、代走で起用されることが多い選手でした。その三木コーチの指導を受けながら、哲人の中に何か通じるものがあったんでしょうね。

 

二宮: なるほど。杉村さんからはどういう指導を?
杉村: 哲人によく言っていたのが、“右の壁”を意識することです。右打者の場合、よく「左の肩を開くな」と言いますが、左肩が開いていたとしても、右肩が残っていればいいんです。そうすれば、ボールとの距離を取ることができるので、大事なのは“右の壁”です。

 

5二宮: つまり体の後ろのラインを真っすぐにしろと?
杉村: 簡単に言うと、“真っすぐ立て”ということです。人間が最も力を発揮できるのは、90度のときです。打席に入る時、体(頭からつま先まで)を真っすぐに立ち、地面に対して90度のかたちをつくる。もちろんバットを持つヒジの角度も90度にする。きちんと角度を作ることができれば、自然と懐があくので良い構えに繋がります。あと、僕がよく言うのは“顔の向き”です。

 

二宮: 顔ですか?
杉村: 打席に入って構えた時に、まずピッチャーを見ますよね。しかし、近くを見ることによって猫背になってしまう。なので、まずは遠くにあるバックスクリーンを見るんです。遠くを見ることで自然と姿勢は良くなります。遠くを見てから視線だけをピッチャーに向けるのが理想的です。

 

 チームに受け継がれる野村理論

 

二宮: 杉村さんが指導者として影響を受けたのは、やはりヤクルトを3度の日本一に導いた名監督の野村克也さんでしょう?
杉村: 野村さんの監督時代と僕の現役時代は重なっていないんです。選手の時に野村さんの指導を受けていれば、もっと打てたかなとは思いますね(笑)。野村ノートを拝見させて頂いたり、野村さんの指導論を聞いて、頭脳野球という印象を受けました。

 

二宮: 今季のヤクルトを見ると、攻守で非常にバランスがとれている。野村野球を彷彿させるものがあると感じました。
杉村: 打撃面では、野村さんの遺産が100%残っていますね。横浜で打撃指導をしていた時に、選手に説明しても伝わらないことが度々ありました。しかし、ウチの選手は言わなくてもできることが沢山あるので、少しアドバイスをしただけですぐに理解してくれます。チームに浸透している野村理論に、新しい野球をどんどんプラスしていけば、技術は自然と上がっていくので、それがヤクルトの打撃力向上に繋がっていると思います。

 

二宮: 山田選手は、2年連続で素晴らしい成績を残しました。今年は“三冠”を手にしたほかに、打率、打点、安打数で2位です。前人未到の六冠の可能性すらありました。
杉村: 来季はどんな目標を立てればいいのか悩むところですね。彼は以前から「三拍子揃った選手になりたい」と言っています。走攻守が揃った選手は、やはり誰もが憧れる理想像だと思います。プロ野球選手になった以上、目指すべきところはそこでしょう。哲人は究極の姿に挑戦中ですね。とんでもない23歳ですよ(笑)。 

 

(第3回につづく)

 

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3<杉村繁(すぎむら・しげる)プロフィール>
1957年7月31日、高知県高知市出身。高知高時代は、3度甲子園に出場。3年春は東海大相模高との決勝で、延長13回表に決勝打を放ち、優勝に貢献した。「中西太二世」の異名を取り、76年にドラフト1位指名でヤクルトに入団。11年のプロ生活で147安打を記録し、87年に現役を引退した。その後は球団広報などフロント業務を務め、00年からは若松勉監督のもと打撃補佐コーチに就任する。08年に横浜の一、二軍巡回打撃コーチとなり、13年には二軍打撃コーチとして再び古巣に復帰。14年から一軍打撃コーチに昇格した。背番号74。

 

(文・写真/安部晴奈)

 

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