1二宮: 今でこそ日本人が海外のクラブでプレーすることも珍しくなくなってきましたが、村田さんはフランスで日本人プロ第1号になった日本ラグビー界のパイオニアです。外国で勝負しようと思ったきっかけは?

村田: 1998年の米国カナダ遠征の時に、前年から代表に入ってきた岩渕(健輔)の知り合いの方が、イングランドのサラセンズの専属カメラマンだったんです。その方を含めた4人でランチを食べたときに「イワブチをサラセンズに入れようと思っている」という話だったんです。その人に「僕も見てください」と言ったんです。それがまずは1つのきっかけ。僕が29、30歳なるころで、まだいけるかなと思っていたんです

 

二宮: イタリアからも声がかかったそうですね。

村田: 31歳の時です。結局、イタリアのボローニャとフランスはアビロン・バイヨンヌの2チームからオファーが来ました。イギリスのクラブは「歳だから厳しい」と。

 

二宮: バイヨンヌの条件の方が良くなかったと聞きました。

村田: ボローニャは1部で、バイヨンヌは2部でしたから。ちょうどバイヨンヌがフランスプロリーグの編成上2部に落ちて2、3年目の年でした。

 

二宮: それまでレンタルなど一定の期間だけ行った選手はいましたが、腰を据えてプレーする人はいなかった。

村田: そうですね。あの時代はまだ珍しかったと思います。

 

二宮: 家族からの反対は?

村田: むしろ、家族が「行こう」と言ってくれた。チームからは当然、引き止めがありました。

 

二宮: 休職制度は?

村田: 帰るところがあると、やはり本気でできないなと。“無理だと思ったら、すぐ帰ればいい”という思いを捨てて行きたかったんです。

 

二宮: 退路を断ったわけですね。スーパーラグビーでプレーしている選手も、確か日本の会社に籍をおいていますよね。

村田: 今は籍を置いて、行ったり来たりして試合が出られる。そういう制度が当たり前のようになっているんです。行きやすくなっているし、日本で活躍した外国人選手がアシスタントコーチやヘッドコーチ(HC)になったりしているんで、呼びやすくもなっています。エディー・ジョーンズHCもいろいろと動いて、選手をサポートしたと聞きました。ただ僕がフランスに行った当時はそういうネットワークがない時代でした。だからこそ大々的なニュースになったんです。先にフランスのレキップ紙に載って情報が伝わり、日本のスポーツ紙に報道されました。

 

二宮: レキップと言えば、有名紙です。移籍した当初、言葉の壁はありませんでしたか?

村田: はじめは全然、フランス語が話せませんでした。ただ、僕がラッキーだったのは、キャプテンと同じポジションの選手がケガをして、2番手はそんなに良くなかった。“じゃあ、どうする?”となった時に「村田を出そう」と会長が言ってくれたんです。

 

二宮: その試合で開始早々にトライを取るなどの活躍をしたんですよね。今でも覚えていますよ。日本でも相当報道されました。

村田: 本当にあの1試合で、ガラッと立場がかわりました。

 

二宮: デビュー戦は大事ですよね。他の競技に目を転じると、メジャーリーグでの野茂英雄、セリエAでの中田英寿もデビュー戦での活躍をバネに飛躍していきました。

村田: 決して万全ではないし、むしろやばいなと思っていた。選手の名前も憶えられない。サインだけ覚えたんですよね。日本語が喋れるニュージーランド人が1人いて、僕とサインを調整してね。A4の紙1枚くらいにまとめて、“これくらい覚えれば大丈夫だ”と。ラインアウトはとにかく来たボールを投げればいいだけだから、サインは覚えなかったんですよ。

 

 フランスで受けたカルチャーショック

 

二宮: 結局、フランスでは何シーズン、プレーしたのでしょう?

村田: 2シーズンで公式戦に40試合出場しました。1シーズン約30試合。当時の外国人枠は2つしかない中で、ほぼレギュラーで出場し続けました。

 

二宮: フランスと言えば、ワインのイメージがありますが、お酒にまつわるエピソードを教えてください。

村田: フランスでビックリしたのは、試合前にお酒を飲む選手がいたことです。試合は3時開始が多くて、当日必ず9時に朝練するんです。トレーニングはハードにいくから、結構疲れるんですよ。朝練を1時間ぐらいやったら、試合4時間前の11時にしっかりランチを取る。パスタやチキンと、テーブルワインが出るんですね。それを水半分、酒半分に薄めて数名が飲んでいるんです。結局2、3杯飲んでいるので、何人かは顔が赤くなっている(笑)。そのあとはカードゲームとかをしてリラックスしているんですよ。

 

5二宮: 誰も「飲むな」とは言わないんですか?

村田: 当たり前のように、コーチも飲んでいますから。東芝府中で一緒にプレーしたアンガス(アンドリュー・マコーミック)から「ワタル、聞いてくれ。フランス人は試合前にワインを飲んでたぞ」と言われていたんです。その時は「そんなことねぇだろ」と返しましたが、実際にそれを目の当たりにした。「やっぱり飲んでいた」と驚きました。

 

二宮: フランスから日本に帰ってきて、ヤマハ発動機でも活躍しました。ヤマハを選んだ理由は?

村田: 理由の1つに、東芝を退社してフランスに行ったこともあります。日本に戻ると決める前から、一番にオファーをくれたのがヤマハでした。ヤマハは関西社会人ラグビーAリーグに上がったばかり。その時の監督が花岡伸明さんでした。花岡さんに「もう一回こっちで一緒にチームをサポートしてくれないか?」と誘われたんです。その頃、東芝でお世話になった向井昭吾さんも代表監督になっていました。向井さんからは「代表を立て直したいから戻って来いよ」と。ちょうど2人目の子どもがバイヨンヌで産まれたばかりだったので、ベースを一度、日本に戻した方がいいのかなと非常に悩みましたね。

 

二宮: フランスの2部チームで活躍し、1部からのオファーもあったでしょう。

村田: 当時は次の契約をしていなかったので、“村田はどこに行くのか”と仏ラグビー紙(ミディオランピック/週1回発行)毎週のように新聞に載るんですよ。“隣町の1部ビアリッツに行くんじゃないか”とか。実際に打診もありました。バイヨンヌは残留させるために、給料をニュージーランド人くらいに認めてくれて、「倍出すから残れ」とも言われたんです。

 

二宮: それはすごい。ヤマハに戻られてからも活躍して、日本代表にも復帰。現役引退後は7人制の日本代表監督も務められました。

村田: 4年間やって、最初はリオデジャネイロ五輪までやる予定だったんです。急遽、専修大学の方から、「監督をやってくれないか」と頼まれた。母校からの依頼だったので断れませんでした。

 

 母校の日本一。そしてジャパン

 

二宮: 専修大はリーグ戦5回の優勝、大学選手権では3回のベスト4入りを果たしています。

村田: 02年に初めて2部に降格してから13年もの間、2部にいました。リーグ戦の優勝は、僕が4年生でキャプテンの時以来、遠ざかっていたんです。僕が監督として3年前に来たときは「ここはサークルか?」と思うほどダラけていました。

 

二宮: それを、就任わずか3年目で1部に引き上げたのだから凄腕です。昔と違って、こうしろ、ああしろというだけでは選手はついてこないでしょう。どういうふうにコミュニケーションをはかったのですか?

村田: 選手全員と面談しましたね。1年目は年に4回も。中には「なんで僕じゃないんですか」と聞いてくる選手もいます。それを説明できるだけの言葉やゲームスタッツ、ビデオ映像も必要になってきます。ここが理不尽だとダメ。選手に「なんだ。そんな理由なのか」と思われてもいけません。他には全員の前では、選手をなるべく褒めるようにしています。ただプレーが気になった時は、個別に呼び出して「こういうプレーをしていたら使えない」とはっきり言います。

 

二宮: 細やかな気遣いの中でチームづくりをしていくんですね。

村田: 昨年は最後の最後でチームがまとまりましたね。入れ替え戦の3日前に全体ミーティングをやったんです。そこで4年生にコメントさせたんですよ。メンバーを発表した後に、出られない4年生の何人かが途中から泣きながら話した。それを見て、まだ話していないヤツももらい泣きしていました。僕は監督だから、その場では絶対泣けないんですが、この日トレーニングに付き合ってくれた現役トップリーガーのスポットコーチも泣いていた。それくらい熱いトークをぶつけ合うことができたんです。「試合には出られないが、精一杯応援するから最後、頑張ってくれよな」と。ああいうのは、ラグビーならではというか。実際、それで勝ちましたから。10回やって2、3回勝てるか勝てないところに。

 

二宮: さて、今後の目標は?

村田: 僕は専修大を日本一にしたいんです。これがまず当面の目標。そのためには帝京大のV10を止めないといけない。

 

二宮: 現在、大学選手権6連覇中の帝京には、あと3連覇するくらいの勢いがあると見ているわけですね。

村田: 僕の目標では19年までに倒したい。その年が専修大ラグビー部90周年なんですよね。それに懸けているんです。

 

二宮: 90周年に花を添えたいと?

村田: そこを照準にしています。専修大に帰ってきた時も、記者会見で「7年後に日本一を争えるようにしたい」と言いました。3年で1部に上がって、5年でリーグ戦を制覇する。1部昇格までうまく行ったので、来年はリーグ戦で優勝争いをしたいんです。その5年は、選手が入れ替わり、僕が誘った選手だけになる。もちろん今までいた選手も伸びてきたから入れ替え戦にも勝つことができた。ここで耐えて、上で勝負したいなと思っています。

 

二宮: 今回のW杯で日本が南アフリカに勝ったことを思えば、2部から上がったばかりの専修大が強豪校に勝つのも不可能じゃないと?

村田: 本当にその通りです。今、選手にも言っています。「日本が南アに勝つ時代だ。専修だって東海、流経にリーグ戦で勝つチャンスは十分ある」と。ただ普通にやっていても勝てない。そのためには、すべてにおいてギリギリまで追求していかないと……。

 

二宮: 最後になりますが、再び日本代表の指揮を執りたいとの思いは?

村田: 2020年のオリンピックには7人制の監督でという夢はあります。やはり志半ばで終えてしまったので、セブンズの方はもう一度、恩返しの意味も込めてやりたいですね。

 

二宮: 有意義な時間をありがとうございました。

村田: こちらこそ、楽しいお酒でした。シーズン後に、改めてこの美味しいそば焼酎を飲みたいです。

 

(おわり)

 

<村田亙(むらた・わたる)>
 1968年1月25日、福岡県生まれ。東福岡高を経て、専修大に進学。90年に東芝府中に入社。96年度からの日本選手権3連覇に貢献した。日本代表のSHとして、3度のW杯に出場。99年にはフランス2部リーグのバイヨンヌに移籍し、日本人初のプロラグビー選手として活躍する。帰国後はヤマハ発動機でプレー。04年度にチームをトップリーグ準優勝に導いた。日本代表キャップ数は41。08年の現役引退後は7人制日本代表の監督に就任。12年からは母校・専修大ラグビー部の監督を務め、14年度には13年ぶりの1部復帰を果たした。

 今回、村田さんと楽しんだお酒は本格そば焼酎「雲海」。厳選されたそばと、宮崎最北・五ヶ瀬の豊かな自然が育んだ清冽な水で丁寧に造りあげた深い味わい、すっきりとした甘さと爽やかな香りが特徴の本格そば焼酎です。ソーダで割ることで華やかな甘い香りが際立ちます。
提供/雲海酒造株式会社


<対談協力>
鉄板 かわなか
東京都渋谷区宇田川町34-6
TEL:03-3463-5318

ランチ 土曜日をのぞく毎日12時~14時半

ディナー 毎日夕方17時~23時半(日曜日のみ21時)


☆プレゼント☆
1 村田さんの直筆サイン色紙を本格そば焼酎「雲海」(900ml、アルコール度数25度)とともに読者3名様にプレゼント致します。ご希望の方はこちらより、本文の最初に「村田亙さんのサイン希望」と明記の上、下記クイズの答え、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)、このコーナーへの感想や取り上げて欲しいゲストなどがあれば、お書き添えの上、送信してください。応募者多数の場合は抽選とし、当選発表は発送をもってかえさせていただきます。締切は11月12日(木)までです。たくさんのご応募お待ちしております。なお、ご応募は20歳以上の方に限らせていただきます。

◎クイズ◎

 今回、村田亙さんと楽しんだお酒の名前は?


 お酒は20歳になってから。

 お酒は楽しく適量を。

 飲酒運転は絶対にやめましょう。

 妊娠中や授乳期の飲酒はお控えください。

(構成・写真/杉浦泰介)


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