野村克也によれば、日本のプロ野球は「スペンサー以前」と「以後」に分けられるという。それくらい彼がもたらした本場の野球は斬新にして合理的だった。

 

 野村の著書『プロ野球重大事件』(角川書店)から一例を引く。<打順を待っているときはネクスト・バッターズ・サークルに入るのがルールだが、スペンサーは必ずといっていいほどキャッチャーの斜め後方に立っていた。「あんなところに立っていいのか?」。私はいつも審判に抗議したが、要するに彼はピッチャーの球筋を見極めるだけでなく、配球の傾向やクセを見抜こうとしていたのである>

 

 ダリル・スペンサー。1967年の阪急の初優勝は、この男を抜きにしては考えられない。当時、ヘッドコーチだった青田昇は生前、私のインタビューに「外国人のナンバーワンはスペンサー」と語ったものだ。強打好守にして稀代の策士。野村は「スペンサーが来日していなければ、日本の野球は10年、いや20年は遅れていた」と評していた。

 

 ニューヨーク・ジャイアンツ時代はウィリー・メイズ、ロサンゼルス・ドジャース時代はドン・ドライスデールともプレーしている。MLB通算105本塁打の実績はダテじゃない。

 

 普段は温厚な紳士でありながら、グラウンドに出ると“荒くれ者”に一変した。その姿は、まるでジキルとハイド。一方で奇行の持ち主でもあった。

 

 68年8月、大阪球場の南海戦で、スペンサーは半ズボンにゴム草履といういで立ちでネクスト・バッターズ・サークルに立ったのだ。

 

 奇行にしても程がある。真相を確かめるべく直接、本人に質した。スペンサーはカンザス州ウィチタというまちに住んでいた。生まれ故郷だという。「ニシモト(西本幸雄監督)から“オマエの先発はない”と言われ、クラブハウスに戻っていたんだ。すると仲の良いドン・ブラッシングゲーム(ブレイザー)から“オマエ、今日は3番でスタメンだぞ”と言われ、慌てて出て行ったんだよ」

 

 先発のアンダースロー皆川睦男をスペンサーは苦手としていた。そのため西本はスペンサーを当て馬に使ったのだ。そうだとしても、半ズボンにゴム草履はないだろう。「だから制裁処分を受けたんだよ」。丁寧に保管してあるスクラップ記事を見せながら、86歳は豪快に笑った。写真には「¥10,000 Fine」(罰金)とのキャプションが添えられていた。

 

<この原稿は15年11月4日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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