今季のレギュラーシーズンも各チーム、残りは20試合前後となった。セ・リーグの優勝争いは東京ヤクルトと中日に絞られたと言っていいだろう。10年ぶりのVを目指すヤクルトにおいて、決して目立ちはしないがチームに欠かせない存在なのが2番・セカンドの田中浩康である。打ってはバントや右打ちで打線のつなぎ役に徹し、守っては巧みなポジションニングで難しい打球も難なくさばく。まさにバイプレーヤーのなかのバイプレーヤーだ。そんな29歳の野球人生を二宮清純が取材した。
(写真:プロでは優勝経験はない。熾烈な争いにも「今までにない経験をしている。やりがいがある」と語る)
 野田佳彦とかいうこの国の新しい首相は、ひどくどじょうが気に入っているらしい。民主党代表選の場で、相田みつをの詩をたくみに用いて、投票者をホロリとさせた。
<どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ>
 金魚とはライバルの前原誠司のことだったのか。ならば相手を立てつつ、さりげなく引きずり下ろす巧妙なレトリック。この機転、お見事。私も誰も集めにこない投票箱に1票入れておいた。

 そう言えば、昔、ノムさん(野村克也)もやりましたねぇ。
「長嶋がヒマワリなら、オレは月夜に咲く月見草」
 どうも、この手のレトリックに日本人は弱い。「判官びいき」がもてはやされる所以だ。華はなくても味がある。首位を走る東京ヤクルトを泥臭いプレーで支えているのが、これから紹介する田中浩康だ。

 印象的だったのが、6月14日、本拠地・神宮球場での埼玉西武戦。
 序盤に5点を先行される劣勢からジリジリと追い上げ、9回裏に田中のレフト前タイムリーで同点に追いついたヤクルトは11回裏、1死一、二塁のチャンスを迎える。打席にはトップバッターの青木宣親。一打サヨナラの場面だ。

 ベンチを出て、ネクストバッターズサークルに向かう際、田中は監督の小川淳司に、こう耳打ちされた。
「敬遠される場合は、そのボールを打ちにいけ!」
 この時点でヤクルトの野手は底をついており、もし青木が凡打に倒れれば、当然、相手ベンチは田中を敬遠し、ピッチャーである次の林昌勇との勝負を選択する。小川の指示は、それを踏まえたものだった。

 結局、青木は三遊間を破って一死満塁。敬遠はなくなったが、田中は小川の言葉がうれしかった。
「それくらい“オマエに任せたから勝負してこい”と言われたわけですから」
 マウンドにはアレックス・グラマン。サウスポーだ。最悪でも外野に犠牲フライを打つには高めのボールのほうが都合がいい。
 田中はベルトよりも上のボールを待っていた。初球のチェンジアップがやや高めに浮いた。

 いぶし銀の男は、それを見逃さなかった。レフトへの打球は、三塁走者を迎え入れるには十分な飛距離があった。
 三塁走者が生還すると、ベンチから一斉に飛び出したチームメイトからの手荒い祝福が待っていた。今季のヤクルトの粘り強さを象徴するゲームだった。
 
 人との出会いは運命を左右する。それはスポーツの世界に限った話ではない。田中にとってのプロでの恩師は古田敦也だ。
 2004年のドラフト自由獲得枠で早大から入団した田中には即戦力の期待がかけられた。だが1年目はわずか6試合に出場しただけ。さらにそのオフ、球団はセカンドに強打の外国人グレッグ・ラロッカを獲得した。
 2年目のシーズンを迎え、若松勉から古田に監督が代わった。古田はプレイングマネジャーとしてチームの陣頭に立った。目に留まったのが、田中のどじょうのような泥臭いプレーだった。

 古田の回想。
「彼は飛び抜けて足が速いわけでもなければ、守備がうまいわけでもない。ただ、すべてのプレーが堅実でかっちりやるタイプなんです。カバーリングとか細かいことも決して手を抜かない。
 打席に立てば立ったでバットを短く持ち、何とかして塁に出ようとする。その泥臭さが僕好みやったんです。こういう若いヤツが出てくればいいなと……」
 しかし、プロの第一線でやるには克服しなければならない欠点もあった。その点についても古田はアドバイスした。

「田中の欠点はバットが振り遅れるところ。ヘッドが中に入ってしまうからなんです。まぁ、右方向に打つにはそのほうがいいかもしれませんが、振り遅れてばっかりだとプロではやっていけません。
 それで本人にはっきり言いました。“振り遅れるからコック(手首をこねて反動をつけること)を使うな”と。“イチローのように最初から、ある程度、バットを引いておいて、そのままスッと出した方がいい”と。それからだいぶ良くなったんじゃないでしょうか」

 田中は古田のアドバイスを、どう受け止めたのか。
「すべて納得できるものでした。古田さんにはバッティングフォームのみならず、打席での心構え、カウント別の考え方、狙い球の絞り方、守備におけるポジショニング……試合後には毎日、監督室に呼ばれ、指導を受けました。野球観が一変しましたね
 バッティングにおいてはキャッチャー心理が読めなくては絶対にいい結果は出せない。ヤマカンではなく、予測に基づき、頭の中を整理してから打席に立つ。そのことは徹底して言われました」

 では古田の言う「キャッチャー心理」とは、どういうものか。一例を挙げよう。
<配球は、ある程度はマニュアル化されている。例えば、あるバッターが、1球目スライダー空振り、2球目もスライダーで空振りをしたとしよう。このときのバッターの心理状態は、同じ球を3回も空振りしたら、プロとしてこんな恥ずかしいことはないと思っている。事実それは2軍選手のやることだからだ。
 そうすると、バッターの3球目の狙い球は100パーセントスライダーだと考えて、キャッチャーは別の球を要求しないといけない。「同じ球で空振り、空振りと続いたら、次は別の球を投げろ」というマニュアルである。>(古田敦也著『フルタの方程式』朝日新聞出版)
 つまり、バッターはこうした「キャッチャー心理」の逆を突かなければならないのだ。先に紹介した土壇場での同点打、延長でのサヨナラ犠飛は“古田式脳トレ”の成果であったと言えよう。

 京都で生まれた田中は電線メーカーに勤める父親の仕事の都合で、小学校2年の時、千葉県沼南町(現柏市)に引っ越した。軟式の少年野球チームでのポジションは「4番ピッチャー」。チームの花形だった。
 中学2年で、父親は再び転勤。生まれ故郷の京都に戻ってきた。ここでは「奈良スターズ(当時)」というボーイズリーグのチームに入った。

「あまりのレベルの高さにカルチャーショックを受けました」
 やはり野球は関西が本場なのだ。
「このリーグには後にプロに行く選手がたくさんいました。同級生に巨人の内海哲也、亀井義行、ひとつ下には千葉ロッテの今江敏晃……。皆、その頃から名前が通っていました」
 田中は根っからの野球小僧だ。練習が終わって帰宅すると、近所のブロック塀目がけてボールをぶつけ、それを捕球する、いわゆる“壁当て”を繰り返した。あたりが暗くなっても、ひとりで黙々と続けた。

 実は同じ話をヤクルトの宮本慎也からも聞いたことがある。宮本といえばゴールデングラブ賞8度受賞の名手。とりわけスローイングの正確さは絶品だ。
 宮本の名手たる所以、それは薬指の使い方にある。
「ボールを支える薬指の位置がずれたり、浮いたりするとボールの軌道がつくれない。抜けてしまって暴投になることが多いんです。逆に強く握ってしまうのもダメなんです」

 職人芸とでも呼ぶべき薬指の使い方を宮本は“壁当て”によって体得したというのだ。
「子供の頃、団地に住んでいた。よく壁にボールをぶつけて遊んでいました。チョークで書いた的の中に素早く捕って素早く投げる。正確に投げるためには薬指の位置を安定させなければならないと気づいたんです」
 ブラジルがストリートサッカーなら、こちらはストリートベースボール。語源(deportare=遊び、解放)が示すように、スポーツは遊びから始まるものなのである。

(後編につづく)

<この原稿は2011年9月24日・10月1日号『週刊現代』に掲載された内容です>