39年のプロレスラー生活に別れを告げた天龍源一郎に「ジャイアント馬場とアントニオ猪木にフォール勝ちしたのは天龍さんだけ。馬場さんが亡くなり、猪木さんが引退した今、この記録は誰にも破られないですね」と水を向けると「そういうオレはレイザーラモンHGにフォール負けしているんだよ」と言って豪快に笑った。そんなことも、あったっけ。

 

 そこで考えてみた。プロレス史上最大のジャイアントキリングはどの試合か。頭に浮かんだのは次の二つ。

 

 まずひとつは山本小鉄がゴリラ・モンスーンに勝った試合。1969年5月2日、長崎市公会堂。日本プロレスのドル箱興行「ワールドリーグ戦」で身長170センチ、体重100キロの小兵が身長195センチ、体重158キロの大男にフォール勝ちしたのだから少年の私は驚いた。

 

 モンスーンの自爆のスキを突いて巨体に乗っかったのが真相だがフォール勝ちに変わりはない。泡を食ったようなモンスーンの目が忘れられない。

 

 もうひとつは、コメディアンとしても活躍したミスター珍が「20世紀最強」と呼ばれる“鉄人”ルー・テーズに勝った試合である。と言っても、この目で見たわけではない。

 

 そこで直接、本人に確かめてみた。もう今から20年程前の話だ。「珍さん、本当にルー・テーズに勝ったんですか?」単刀直入に切り出すと、珍はギロリとした目でこちらをにらみ、おもむろに語り始めた。

 

「1974年、テネシーでの試合だよ。テーズは既に50歳を超えていたが(57~58歳)筋肉には十分な張りがあった。技の切れ味は抜群で初めてバックドロップを浴びた時には、側頭部をマットに強打して2、3日頭がうずいたもんよ。しかし何試合かやるうちに、バックドロップを放つタイミングが掴めてきた。それで受けた直後、下駄で頭をガツーンとやったんだ。レフェリーのブラインドをついてのKO勝ちよ」

 

 テネシーと言えば、当時、米国の中でも最も反日感情の強かった地。田吾作スタイルで暴れ回る珍はヒールで随分稼いだはずだ。

 

 珍は糖尿病を患いながら60歳まで現役を続け、62歳で世を去った。晩年、彼の自伝作成に携わった私は昔話の聞き役だった。週2日の人工透析は珍にとってもうひとつのファイトのように映った。

 

<この原稿は15年12月9日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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