松原良香にとってJリーグ2年目、1995年シーズンは、ふわふわした居心地の悪いものだった。

 監督だったオランダ人のハンス・オフトとはそりが合わなかったと松原は振り返る。

「ぼくは監督とコミュニケーションを取りたいと思っていたのですが、向こうはノーでしたね。お前たちは俺の言うことを聞いておけばいい、という感じでした」

 

 松原はそうしたオフトの態度に反発を感じるようになっていった。

 94年シーズンに松原はほとんど途中出場ながら18試合出場7ゴールをあげていた。これは元イタリア代表のサルバトーレ・スキラッチの9ゴールに次ぐ成績である。ウルグアイでは若手は結果を出せば、さらに出場機会を与えられた。ところが、翌シーズンは15試合出場と逆に減った。

「ゴールが欲しい場面で、他の選手が起用されるのが理解できませんでした。結果を残しているのは自分ではないのかと」

 

 シーズン終了後、不満を抱えて契約更改に行くと、なぜか年俸が上がっていた。

「94年シーズンは結果を残したのに年俸は上がらなかった。どうなっているんだと思いましたね。これじゃ駄目だと」

 松原の心の支えとなっていたのは、五輪代表だった。

 

 95年5五月、アトランタ五輪アジア地区1次予選が始まっていた。日本代表はタイ、台湾代表とのグループBを勝ち抜いた。松原は全4試合に出場、5得点をあげている。

 

 彼が遠くに見ていたのは、五輪に出場して国外のクラブから認められることだった。そのためには、ぬるま湯の環境にはいてはいけないと思っていたのだ。

 

 そんなとき、同じ静岡県の清水エスパルスから誘いを受けた。

「トップだった堀田(哲爾)さんから(当時、清水に所属していた)兄貴を通して会いたいと言われました。相思相愛というか、ちょうど、永島(昭浩)さんが神戸に移籍していったので、エスパルスもフォワードが欲しかった」

 

 お前、ジュビロでいくら貰っているのだ、いくら欲しいんだと堀田は尋ねてきたという。自分を高く買ってくれていること、そして堀田の直截的な物言いに好感を持った松原は清水への移籍を決めた。

 

 ここでもまた松原が強く影響を受けたフォワードと出会うことになる。

 元イタリア代表のダニエレ・マッサーロである。

 

 マッサーロはイタリアのモンツァで生まれ、フィオレンティーナやACミランでプレーしていた。94年、アメリカW杯でイタリア代表として準優勝。翌95年から清水に加入していた。

 

 松原はマッサーロを「エゴイスト」と一言で表現する。

「俺はここにいるから、お前はこう動けとか。守備なんか全然しないです。ディフェンスは全部ぼく。ぼくはフォワードなのにボールを追いかけて中盤まで戻って、組み立てに参加したり。で、一番前でマッサーロが待っているんです。それで美味しいところは全部持っていく」

 

 松原は当時を思い出して楽しそうに笑った。

「その代わり、ぼくを大事にしてくれるんです。一緒に食事行こうぜとか。ピッチの外で抱き込むのが上手い。馬は合いましたね。いろいろと勉強になりました」

 

 マッサーロが贔屓にしていたイタリア系ブラジル人の経営するイタリアレストランにしばしば出かけ、一緒に釣りをすることもあった。

「遊び方が上手で、イタリアの伊達男という感じでしたね」

 30代後半になっていたマッサーロの身体はぼろぼろだったという。

「いつもテーピング、ぐるぐる巻きにしていました」

 

 シーズンオフ、彼がイタリアに帰るときには、自分の車を自由に使っていいと鍵を渡されたこともある。

「彼はパジェロに乗っていたんです。使わないから乗っていていいよって。そのパジェロで東京に繰り出しましたね」

 

 清水に移籍した96年シーズン序盤、松原は試合に出場していない。開幕と同じ日、3月16日からマレーシアでアトランタ五輪アジア最終予選が始まったのだ。

 

 初戦のイラク戦、前半20分のシュートを松原は今も鮮明に覚えている。

「キーパーの頭上を狙ってループシュートを打ったんです。ボールはキーパーの頭上を越えてゴールに向かっていった。いつも感覚では当然入るはずだったんです」

 

 ところが、このボールは枠をわずか左に外れた。

 松原は、どのように打てばゴールの枠の中に飛ぶかという感覚に自信があった。この1本のシュートが外れたことで、何か、歯車が狂い始めたような気になったという。そして、松原はこの後も簡単なシュートを外し続けた。

 

 試合は1対1の引き分けだった。

 この試合、中盤の攻撃の要である前園真聖が出場停止となっており、代役として中田英寿が先発出場していた。

 

 松原がこのチームを最初から支えていたとすれば、中田は最後に滑り込んだ選手と言える。前年の4月、中田はユース代表としてカタールで行われたワールドユースでベスト8入り。ひとつ上のカテゴリーに抜擢されたのだ。

 

 最終予選2試合目、オマーン戦で監督の西野朗は、前園と中田の両方を起用する戦術をとった。フォワードの枚数を1枚減らして、中盤を厚くしたのだ。

 そこで松原ははじき飛ばされることになった――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


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