1996年3月、マレーシアでアトランタ五輪最終予選が始まった。8カ国が2グループに分かれ、上位2カ国が準決勝に進出。その4カ国のうち3カ国に五輪出場権が与えられた。

 日本代表はイラク、オマーン、UAEと同組に入り、2勝1分の1位で準決勝に進出。準決勝ではサウジアラビア代表に2対1と勝利し、メキシコ五輪以来28年ぶりのオリンピック出場を決めた。

 

 しかし、松原良香は心の底から喜ぶことはできなかった。この最終予選、初戦のイラク戦で入ると思ったシュートを外して以来、松原の調子はさっぱりだった。その自信のなさが監督の西野朗たちに伝わったのだろう、続くオマーン戦は途中出場。UAE戦とサウジアラビア戦は出場機会はなかった。決勝の韓国戦には途中から出たが、最終予選は0得点で終わった。

 

 このとき、自分がアトランタで行われる本大会のメンバーに登録されるという自信はなかったと松原は振り返る。

「オリンピックって登録人数が18人しかいない。そのうちフォワードは何枠だろうって、数えたり。(最終予選のメンバーにはフォワードの)安永(聡太郞)や柳沢(敦)もいましたからね。ぼくがいなくてもポジションをやりくりすればいいだけの話だから。今から考えればそんなことじゃ駄目なんですけれどね。自分のことを信じてプレーしなきゃ」

 

 6月17日に発表された五輪登録メンバーの中には、フォワードの軸である城彰二と共に松原の名前が入っていた。

 そして7月22 日、日本代表はマイアミにあるオレンジボウルで初戦を迎えた。初戦の相手は優勝候補のブラジル代表だった。この試合の先発はキーパー川口能活、ディフェンスに松田直樹、田中誠、鈴木秀人。中盤に路木龍次、伊東輝悦、服部年宏、遠藤彰弘、前園真聖、そして中田英寿(登録はフォワード)。フォワードは城彰二――。中盤を厚くして全員でブラジルの攻撃を凌ぐ。そして隙を見つけて、カウンターで点を狙うという戦術だった。

 

 ピッチに現れたブラジル代表を見て、ベンチにいた松原は本当にこのメンバーとやるのかと心の中で呟いていた。

 ブラジル代表のメンバーは、キーパーにジーダ、ディフェンスは右からゼ・マリア、アウダイール、ロナウダン、ロベルト・カルロス。中盤にフラビオ・コンセイソン、アマラウ、ジュニーニョ・パウリスタ、リバウド。前線はベベットとサビオ――。ブラジルは23歳以上のオーバーエージ枠として、ベベット、リバウド、アウダイールというフル代表の選手を加えていたのだ。

 

 松原はウルグアイ留学に行ってから、世界のサッカー事情に興味を持つようになっていた。ヨーロッパのリーグでは、ウルグアイで一緒にプレーしていた選手を見つけることもあった。そんな松原にとって、ブラジル代表のメンバーは「全部知っている選手」だったのだ。

「向こうなんか日本の選手のことは誰も知らなかったでしょ?」

 

 

 ところが先手を取ったのは日本代表だった。

 後半27分、左サイドから路木のあげたクロスボールに対して、アウダイールとキーパーのジーダが衝突。転がったボールを伊東が難なく決めたのだ。明らかに格下の日本に負けられないブラジル代表は必死で攻め続けた。そのボールをキーパーの川口を中心とした守備陣が辛抱強く守った。

 

 松原が城と交代してピッチに送り出されたのは、後半41分のことだった。

 監督の西野朗の指示はこうだ。

――とにかく守れ。前から追って、ディフェンスの隙間を埋めろ。そしてチャンスがあったらゴールを狙え。

 

 ピッチには入ったとき、松原は自分の足が地に着いていないような感覚だったという。

 ブラジル代表は後半19分からサビオに変わって、“怪物”ロナウドが入っていた。76年生まれのロナウドは、オランダのPSVからスペインの名門バルセロナへの移籍が決まっていた。

 

「ぼくが一番覚えているのは、ロナウドには(途中出場した)上村(健一)がマンマークで付いていた。その上村がぶっちぎられたんです。ぼくも追いかけたけど、全く追いつかない。プロフィールを見るとぼくと同じぐらいの身長。でも全然大きい。そしてキレがある。鋭く動く重戦車という感じでした。その上、足の裏を使ったりするうまさもある」

 

 それまで松原は年下の選手に負けるはずがないと思っていた。しかし、ロナウドは桁外れだった。

「彼はぼくより2つ下。これはモノが違うなと。彼は強烈でした」

 

 そしてもう一人印象に残っているのが、左サイドバックのロベルト・カルロスである。

「生で見ると足が本当に太かった。彼と競ったんですが、(身長に差があるにも関わらず)ヘディングで負けてしまった。そんなに当たりは強いとは思わなかったです。ただ、彼がボールを自分の間合いで持てば、やられてしまうという凄みを感じましたね」

 

 松原がピッチに立ったのはそう長い時間ではない。しかし、その1分1秒がこれまで経験が無いほど、長く感じられた。

 そして、試合終了の笛が鳴った――。1対0で日本代表の勝利。いわゆるマイアミの奇跡である。

 

「信じられなかったですよ。オリンピックの真剣勝負でブラジルに勝つなんて。それもあれだけの才能ある選手のいるチームですからね」

 

 ブラジルに勝ったことで、次も行けるのではないかとチームの雰囲気は明るくなったという。

 しかし、第2戦、ナイジェリアには0対2で敗れてしまう。そして松原の出番はなかった。

「ベンチで見ていて、ブラジルよりも強くて速かった。とにかく身体が強かった」

 

 松原が覚えているのは、大会前の練習のときだった。彼らは上半身裸になっていた。その黒い身体は同年代とは思えないほどの体つきだったのだ。

 トイレで用を足していると、後からナイジェリアの選手たちが入ってきた。

 

「カヌーがぼくのすぐそばに立って用を足している。腰の位置が高いんですよ」

 日本代表にアフリカ人の選手たちとの対戦経験が圧倒的に少なかったことも敗因だったろう。

 

 第3戦のハンガリー戦は、ブラジル、ナイジェリアに比べると選手の動き、パス回しが遅く感じられたという。そして、3対2で勝利。2勝1敗で3カ国が並んだが、得失点差で日本は決勝トーナメントに進出することができなかった――。

 

 敗退が決まったとき、松原は腹の奥からなんとも言えぬ寂しい思いがわき上がってきた。このチームはこれで解散する、もう2度と一緒にやることはない。もう少し、みんなと世界の舞台で戦いたかったのだ。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


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