アトランタ、シドニー、アテネ。パラリンピック3大会で計20個(金15、銀3、銅2)のメダルを獲得し、「水の女王」の異名を欲しいままにした成田真由美が4大会目の北京でメダルなしに終わったのは実力が低下したからではない。大会前年のクラス分けで、それまでよりもひとつ運動機能障害の軽いクラスに組み入れられてしまったのだ。

 

 たとえば自由形、背泳ぎ、バタフライの場合、S1からS10まで、10のクラスに分けられる。最も重いのがS1で、軽いのがS10だ。北京で成田はS4からS5に変更になった。この時点でメダルへの望みは、ほぼ断たれた。大会後、本人は無念の面持ちでこう語った。「自由形と背泳ぎは(メダル獲得は)無理だろうと諦めました。しかし個人メドレーなら、まだチャンスがあると。ところが開幕直前、再度のクラス分けでこれも不利な状況に追い込まれた。すぐにJPC(日本パラリンピック委員会)が抗議してくれたのですが、IPC(国際パラリンピック委員会)の判断は覆りませんでした」

 

 個人メドレーは背泳ぎ、平泳ぎに加えてバタフライがある。腹筋と背筋が使えない成田はこれを泳ぐことができない。結局、個人メドレーは棄権せざるを得なかった。

 

 得意の自由形と背泳ぎもクラス変更により、不利を余儀なくされた。成田によればS4において、飛び込みやキック、クイックターンのできる選手は、ほとんどいない。ところが逆にS5では、こうしたテクニックを使える選手じゃないと、上位は狙えないというのだ。

 

 つまり最大の敵がルールという皮肉。努力や工夫次第で乗り越えられる容易な壁ではない。パラリンピックでは、こうしたことがしばしば起こり得る。

 

 北京後、成田は右ヒジと股関節にメスを入れた。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会理事にも就任し、一線を退いたのかと思われた。ところが、昨年6月に復帰し、さる3月6日に行なわれた代表選考会では女子50メートル自由形に出場。45歳にして派遣標準記録を切って代表入りが内定した。「自分には泳ぐことしかできない。泳ぐことで何かを伝えたい」。無理だ、無茶だ、不可能だと言われると持ち前の反骨心に火が付くのだろう。何歳になっても「レジェンド」に甘んじる性分ではない。

 

<この原稿は16年3月9日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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