勝てば勝因の第一に「チームの和」があげられ、負ければ敗因の第一に「チームの不協和音」があげられる。それを全面的に否定するつもりはないが、こうも国際大会のたびに同じ論調の報道が続くと、食傷気味にもなってくる。そもそも、勝ったチームにだって内紛はありうるし、結束とて必ずしも勝利を約束するものではないはずなのだが。

 

 なぜ、なでしこは敗れたのか。答えは、なぜ男子の日本代表がW杯や五輪の常連へ変貌できたのかを考えればわかる。

 

 Jリーグができたから、である。

 

 それまで1000人に満たない観客の前でプレーすることもあった日本の選手たちは、Jリーグができたことで数万人の前でプレーすることが日常となった。つまり、日常が激変し、その日常が他のアジア諸国の日常と比べても明らかな優位性を持っていたがゆえに、弱かった日本のサッカーは急速に国際競争力を持つことができた。

 

 女子はどうだったか。

 

 男子のような土壌を持たない彼女たちが、それでも世界一になれたのは、佐々木監督を始めとするスタッフ、選手たちの驚異的な奮闘があったからだった。そのことは、改めて強く訴えておきたい。

 

 だが、個人の頑張りには限界がある。男子は、激変した環境が次々と新しい才能を誕生させていったが、女子の環境は、ごく一部の選手を除き変わらなかった。必要なのは国民栄誉賞でもテレビ出演でもなく、女子サッカー全体の日常を改革することだったのだが、多くの人は、満開のなでしこを愛でることで満足した。次の花を咲かせるための土壌改革に乗り出そうとする動きは、みられなかった。

 

 普段3ケタの観衆しか知らない選手が、国民的な注目を集める大会で普段通りの力を出すのは簡単なことではない。まして、今回は挑戦の余地が残された世界大会と違い、絶対に失敗の許されないアジア予選である。わたしが佐々木監督であっても、経験のない若い選手を起用するのは二の足を踏んだことだろう。

 

 かくして、なでしこは老いた。必然の老いだった。

 

 改めて痛感させられたのは、初戦と先制点の重要性である。男子の五輪代表は、そこに恵まれた。なでしこは、恵まれなかった。大黒柱を失って初めて臨む重要な一戦で先制点を奪われたことが、チームの歯車を大きく狂わせてしまった。

 

 残念なのは、今回のなでしこたちから、従来のような“物語”が見えてこなかったということである。初めて世界の頂点に立った時、彼女たちは傷ついた日本の心を背負って戦っていた。ロンドン五輪、15年W杯では女子サッカーを文化にしたい、との思いが見えた。

 

 今回、彼女たちは何のために戦ったのか。

 

 物語を持たずして勝つには、アジアのレベルは高すぎた。高くしたのは他ならぬなでしこなのだが、そこを見誤ったことが、もう一つの敗因だとわたしは思う。

 

<この原稿は16年3月10日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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