サンフランシスコ・シールズの傘下、ソルトレイクシティ・ビーズに所属していいたウォーリー与那嶺こと与那嶺要が来日していなければ、日本のプロ野球は5年、いや10年は遅れていたのではないか。ウォーリーこそは、日本における「スライディングの父」である。

 

 1951年、日系2世のウォーリーは戦後初の外国人選手として巨人に入団した。「オマエが体で覚えた野球を遠慮しないでやってくれ」。それが当時の監督・水原茂がウォーリーに課した最大にして唯一のミッションだった。

 

 オールドファンが今でも語り草にするプレーがある。1953年10月16日、巨人が王手をかけて迎えた南海との日本シリーズ第7戦でそれは飛び出す。初回、二塁にいたウォーリーは南村不可止の打球が三遊間に転がるや猛然とスタートを切る。誰の目にも暴走と映った。

 

 ボールはショート木塚忠助からサード蔭山和夫へ。ところが、タッチの瞬間、信じられないことが起こる。滑り込んだウォーリーが蔭山のグラブを左足の甲の部分で下から蹴り上げたのだ。ボールがレフト方向に転々とする間に、ウォーリーはまんまと本塁を陥れた。当時を知る者に話を聞くと、蹴り上げられたボールは「シャンパンのコルク栓のようにポーンと音を立て、1メートルも上空を舞った」と言う。

 

 生前、本人に直接会ってこのシーンを振り返ってもらった。「蔭山さんのグラブの中にボールが吸い込まれた瞬間、下から蹴り上げてやろうと狙いを定めたね。あの人、まさかそんなことされるわけないと思って、ボールをちゃんと握っていなかったよ。だから滑る前からセーフになると分かっていた」。そして、こんな後日談も。「困ったのは、その後よ。あの人、本塁に走られたらマズイと思ったのか、ずっと僕の足を持って離さなかったよ(笑)」。敗軍の将となった鶴岡一人も潔かった。「このシリーズはキミに負けたよ」

 

 MLBでは本塁に続き、今季からその他の3つのベースでの故意の接触プレーも禁止になった。日本でも来季から導入される可能性が高い。かつては荒々しさを許容したMLBにおいても、今や併殺を避けるための危険なスライディングは許されない。63年前のウォーリーのスライディングも、今ならビデオ判定の末に「悪質」と判定され、アウトだろう。粗暴は論外だが、“技あり”には一考の余地があるのではないか。プロに杓子定規はなじまないような気もする。

 

<この原稿は16年4月20日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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