プロ野球はシーズン序盤戦から熱い試合が続いてますね。皆さんが応援しているチームの状態はいかがでしょうか? 予想とは違う順位でヤキモキすることもあるでしょうが、好きなチームを信じてしっかり応援していきましょう!

 

 最近よく「某選手の問題をどう思いますか?」と質問されます。私自身は法を犯した元選手の問題は彼自身の心にあって、セカンドキャリア問題とは全く関係ないと考えています。しかしアスリートのセカンドキャリアを支援する立場から考えると、法を犯せば必ず「元プロ野球選手」という肩書がニュースになってしまいます。社会的責任や影響力が大きいことを自覚して、責任ある行動をして欲しいですね。

 

 ひとつのことですべての元プロ野球選手がイコールとして見られ、「あ~、やっぱり元プロのセカンドキャリアは大変なんだなぁ~」と思われてしまうのは残念なことです。すべての人間を前向きにさせることはできませんが、少しでもアスリートのセカンドキャリア支援でお役に立てるようをしっかり考えていきたいと思います。

 

 では本題に入りましょう。前回は「セカンドキャリアの成功のためには、5年後の設計図を描くことが大切だ」とお話しました。それに続いて今回は「間違った思い込みが未来を変えてしまう」、という話をさせて頂きます。

 

 私は「セカンドキャリアに進む前にマインドセットが絶対に必要だ」と説いて回っています。マインドセットというのは何か物事を進めるときに、その意味や目的を意識することです。セカンドキャリアでいえば「何のためにその仕事に就くのか」といった心構えになるでしょう。

 

 しかし多くの元プロ野球選手たちはこのマインドセットができないまま前に進もうとしています。その人たちの心の中には「野球人生の中でこれまで辛いこと、苦しいこと、理不尽な事に耐えてきたから、これからも同じように耐えることができる」、という間違った思い込みがあります。

 

 実際に多くの人から「田口さん、自分は辛いことに耐える自信があるからどんな仕事でも大丈夫です!」と言われたことがあります。残念ながら、そう言い切った選手たちのほとんどが就職してからの結果は散々なものとなっています。自信を持って次に進んだつもりが「あれっ、こんなはずじゃなかった……」となってしまうようです。

 

 なぜなのでしょうか? それは、これまで辛い、苦しい、理不尽なことを乗り切れていたのは野球をやることについてマインドセットができていたからです。別の言い方をすれば心の中に拠り所があったからなのです。人によってそれは様々ですが、「プロ野球選手になりたい」「甲子園に行きたい」「レギュラーになりたい」という強い思いが、辛いことや苦しいことを乗り切らせてくれたのです。

 

 しかしセカンドキャリアをスタートさせるときに、この新たな夢や目標を作らないまま、すなわちマインドセットをしないまま社会に出てしまう。そうすると心の拠り所がないために、何事にも耐えられなくなる。そして「野球をやってる時は楽しかった」と逃げ場所を作り始め、現実から逃げてしまうのです。

 

 野球ではない世界で生きていくと決めたら、まずはこれまでのことを完全にリセットし、過去の自分、未来の自分を見つめ、考えることが必要です。そして野球に代わる新しい夢、ビジョンを作ること。それこそがセカンドキャリアを考えるときに一番最初にやらなくてはいけないことです。

 

「野球を辞めたからすぐに仕事を探さないといけない」。そう急いてしまうのではなくまずマインドセットをして、「輝く自分」でいたいのか、「人の為になる自分」でいたいのか、「お金を稼ぐ自分」でいたいのかなど目的を明確にすること。それができて初めて、そのためにはどんな職種があるのかと考えていく。このプロセスがセカンドキャリアでの成功の第一歩だと考えています。

 

 少し話は逸れますがセカンドキャリア支援をしていると、よく「野球バカ」という言葉に出くわします。とても残念な言葉ですが、野球を一生懸命やってきた人間が「野球バカ」と世の中で言われるようになったのは選手たちのせいではなく、そういう野球人を作った我々大人や多くの指導者の責任だと感じています。

 

 第1回目にも書きましたが「野球しかできない」ではなく、「これまでは野球を頑張ってきたけど、これからは新しい未来のために頑張る」と言える選手を育成するにはどう指導していくのがいいのか。そのことを考える指導者が増えて欲しいものですね。

 

 さて今回までは引退した元プロ野球選手にフォーカスして書きましたが、次回はスポーツ選手のセカンドキャリア問題の根本にあるものは何か。それについて皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

 

1600314taguchi田口竜二(たぐち・りゅうじ)
1967年1月8日、広島県廿日市市出身。
1984年に都城高校(宮崎)のエースとして春夏甲子園出場。春はベスト4、夏はベスト16。ドラフト会議で南海ホークスから1位指名され、1985年に入団し、2005年退団。現在、株式会社白寿生科学研究所人材開拓グループ長としてセカンドキャリア支援を行なっている。

◎バックナンバーはこちらから