元ブラジル代表の故・ソクラテスがぼくにこう教えてくれたことがある。

「移籍というのは、結婚と同じだよ。選手もそれぞれ個性があり、受け入れる側のクラブにも事情がある。どんなにいい選手であっても、必ず移籍が成功するわけではない。タイミングや巡り合わせがあるんだ」

 

 ソクラテス自身も、イタリアのフィオレンティーナに移籍した際、結果を残せなかったという過去がある。

 

 1999年の松原良香は、まさにタイミングと巡り合わせが悪かった――。

 

アシストだけでは上がらない“FWの評価”

 

 前年、クロアチアのリエカに移籍、それなりの成績を残した。クラブは契約延長を望んだが、代理人は欲を出し他のクラブを探すことになった。ところが、コンディションが整わないままスイスのクラブのテストを受け、落ちた。その間にリエカとの話は消滅。その後、ドイツ、ブンデスリーガ3部のギュータースローが松原との契約を望んだが、代理人が手間取っている間にこちらもなくなってしまったのだ。

 

 松原が次のクラブ、スイス・スーパーリーグのドレモンと契約を結んだのは10月になっていた。

 

 ただし、変則的な契約である。

 

 ドレモンはバーゼルから南西30キロ、スイス中央部に位置するジュラ州の州都である。クラブは1905年に創設された歴史あるクラブではあるが、決して強豪とはいえなかった。松原が加入したとき、ドレモンは最下位に沈んでいた。

 

 スイス・スーパーリーグは南米、アフリカ、あるいは東欧の選手にとって“入り口”でもある。スイスで雰囲気に馴染んでから、トップリーグに移籍するのだ。

 ドレモンにも多くの外国人選手が所属していた。

 

 松原はこう振り返る。

「ブラジル人、アルゼンチン人、アルバニア人、ロシア人、ギリシア人、ジンバブエ人がいましたね。スイス人のキャプテンは、選手たちを束ねなければならなかったので、フランス語、英語、スペイン語、ドイツ語など5カ国語が話せた。共通言語はフランス語。クラブが先生をつけてくれました。僕はスペイン語ができたので、意味をある程度類推することはできたのですが、かなり苦戦しました」

 

 ピッチの中は様々な言葉が飛び交って、何語で指示を出せばいいのかと混乱することもあったという。

 

 ドレモンでの出だしは悪くなかった。最初の試合でアシストを決めたのだ。

 

 しかし――。

 

 翌日、新聞を開くと、自分の評価が低いことを知った。

「ドレモンが欲しかったフォワードじゃなかったと書かれていたんです。得点力不足だということでぼくを獲った。フォワードはアシストじゃ駄目、点を決めないと認めてもらえないんだとつくづく思いました」

 

 冬のスイスは冷え込む。雪にも悩まされた。

「あんなに大雪の中でサッカーをしたことはなかったですよね。ソックスも2枚重ねて、その上にビニール袋を履いてからスパイクを履くんです。動けないですよ、全然」

 

 ドレモンで松原は2カ月の間で7試合に出場。ほぼ全試合である。 

 あくまでもドレモンは腰掛けのつもりだった。契約期間は年末までの2カ月、住居と食事は提供されたが、無給という内容だったのだ。

 

日本復帰でゾノとのプレー

 

 契約終了後、松原は日本に帰国している。そして、躯を軽く動かすために、前園真聖と一緒に、J2に降格した湘南ベルマーレの練習に参加することにした。

 

 前園もまた世界を彷徨っていた。98年10月、東京ヴェルディ1969からブラジルのサントスFCへ3カ月のレンタル移籍。レンタル期間終了後は、同じブラジルのゴイアスECでもプレーした。その後、ポルトガルやギリシアのクラブで練習に参加したが、契約には至らなかった。そこで湘南は前園の獲得に興味を示していたのだ。

 

 気心の知れた前園とのプレーは松原にとって楽しいものだった。湘南の監督だった加藤久は2人のプレーを見て、一緒に加入しないかと誘った。

 スイスリーグ2部のクラブからオファーをもらっていた。欧州のクラブで引き続き力を試してみたいという気持ちはあった。

 

 ただし――。

 

 リエカ以降、練習やテストに参加するための移動費、滞在費は松原が立て替えていた。代理人は「後から払う」と言っていたが、その約束は守られなかった。

 

 加えて、欧州での生活に松原は精神的に疲れていた。何より、前園ともう一度プレー出来ることは魅力だった。そこで松原は湘南と1年契約を結ぶことにした。

「これで俺の力を見せる時が来たぞと。ゾノもいるし、良いボールが来るだろう、ゴールも決められると思いましたよ」

 

 2000年シーズン、湘南のユニフォームの背中には「Nakata.net」という文字が入っていた。

 

 この年1月、中田は約17億円の移籍金でペルージャからローマに移籍していた。自らのインターネットサイトがスポンサーになるという形で、中田はかつての所属クラブに5000万円を出資したのだ。このシーズン、松原は40試合出場で13得点という好成績を残し、湘南の年間MVPに選ばれている。シーズン中にJ1のクラブから獲得の打診があったことを後から知った。どうして自分に伝えてくれなかったのだと悔しい思いをしたという。

 

 シーズン後、今度はアルゼンチンに渡り、アルヘンティーノス・ジュニアーズのテストを受けている。

 

 アルヘンティーノスは1904年創立、首都ブエノスアイレスを本拠地とするクラブである。マラドーナが所属したクラブとしても知られている。元アルゼンチン代表のファン・ロマン・リケルメなども下部組織出身である。

 

 このときアルヘンティーノスの監督を務めていたのがセルヒオ・バティスタだった。バティスタもかつてアルヘンティーノスでプレーし、85年にはリベルタドーレス杯を獲得している。後に2008年北京五輪、アルゼンチン代表監督として金メダルを獲得した。

 

 松原はバティスタの自宅に泊まり練習参加、その後はチームの合宿にも加わった。クラブは松原との契約を望んだが、条件的には日本のクラブと比べると半分以下の金額だった。加えてアルゼンチンの経済状態はどん底にあり、その金額でさえもきちんと支払われるかどうか分からない。

 

 松原は悩んだ末、アルゼンチンを引き揚げ、J1のアビスパ福岡に2001年シーズン途中加入することにした。

 

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


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