2001年シーズン途中、松原良香はJ1のアビスパ福岡に加わった。

 

 福岡には元日本代表の三浦泰年、後に日本代表にも選出されるフォワードの山下芳輝などが所属していた。前年の2000年シーズン、アルゼンチン人指揮官ネストール・オマール・ピッコリの元、6位という好成績を残していた。2001年からは、サンフレッチェ広島などでプレーした元韓国代表の盧廷潤を補強。さらにシーズン途中から松原の他、FC東京で出番のなかった呂比須ワグナーも加わっている。呂比須はブラジルから帰化して日本代表入りし、フランスW杯にも出場したフォワードである。

 

 ところが――。

 

 福岡は開幕からガンバ大阪、清水エスパルス、浦和レッズ相手に連勝したが、その後はすっきりとしない成績が続いた。そして年間成績15位――J2へと降格となった。

 

 チーム運営費縮小のため、三浦泰年たちが解雇された。松原もその中に含まれていた。

 

 松原は合流早々、膝を故障、手術していた。「福岡では最初の数カ月何もできませんでした。不完全燃焼だったんですよ。すごく悔しくて。でも、ここからだなと自分は思ったんですよ。絶対、まだできるし。また海外でやりたいと思ったんですよ。何か知らないけれど、すぐに海外って思っちゃう。僕、頭おかしいですよね」と自嘲気味に笑った。

 

 2002年1月、松原はウルグアイに向かった。

 

 代理人からはデフェンソールというクラブからオファーがあると教えられていた。しかし、この連載の<第1回目>に書いたように、到着してみると外国人枠が埋まっており、契約できなかった。そこでブラジルにまで移籍先を広げたが、シーズン途中ということで、希望に沿うクラブは見つからなかった。

 

 ゼロからのリスタート

 

 そして2002年秋、松原は日本に帰国した。

 

 浜松の自宅にいた松原は、1つの新聞記事に目を留めた。湘南時代の監督だった加藤久が、沖縄かりゆしFCと契約すると書かれていたのだ。沖縄にサッカークラブが存在すること自体が初耳だった。沖縄かりゆしFCというクラブは地域リーグだが、ゆくゆくはJリーグを目指しているという。何の気なしに、この記事の話を父親にすると、父親は「この人は偉い。ゼロのところに行って、それを大きくしようというんだから」と加藤のことを褒めた。

 

 ゼロか――。

 

 松原は心の中で呟いた。自分もゼロの状態だった。プレーするクラブはない。帰国早々信頼していた人間に金をだまし取られていたことが分かった。せっかくの蓄えがすっかり消えていたのだ。まず加藤と話してみたいと思った。

 

 松原にとって加藤は恩師とも言える存在だった。

「湘南の時に、久さんが“自律”という言葉を教えてくれたんですよ。自分を律することができないと、選手として成功できないと。その言葉が今になって分かるんですよ。今、若い選手を見ていてそう思う。でも自分で気づかないと駄目ですね。自分がそうだったから良く判りますよ」

 

 加藤の電話番号を調べ、留守番電話にメッセージを残すことにした。


 

 沖縄にサッカーを持ち込んだのは駐留米軍だと言われている。

 米軍の各部隊が、それぞれ沖縄の学校を支援する形で、学校対抗で試合が行われた。選手たちは、兵士を輸送するトラックで試合会場に運ばれたという。

 

 沖縄のサッカーが日本のサッカー組織の中にしっかりと組みこまれたのは1998年のことだ。FCサウシーシャを母体とした、沖縄かりゆしFCが設立したのだ。

 

 かりゆしFCは、沖縄で初めてのJリーグのクラブ設立を目的として、元日本代表であるラモス瑠偉をテクニカルディレクターに迎え入れた。そして、2002年シーズン、5部リーグにあたる九州リーグで優勝した。

 

 しかし――。

 

 2002年末、チームの運営方針を巡って、ラモス瑠偉が突如解任された。そして彼に従う選手たちが大量にチームを離脱。

 

 ラモスの後、加藤久が引き継ぐことになったのだ。

 

 加藤からはすぐに電話があった。「是非力になって欲しい」と頼まれ、松原は、かりゆしFCに加入することを即決した。

 

 ある男が言った「沖縄は難しいよ」

 

 それまで松原は沖縄とは縁が薄かった。実際に住んでみると、魅力的な島だった。

 

 青い空、そして街を少し出ると、海が広がっている。なんて気持ちがいいんだと、松原良香は、車を走らせながら思わず深呼吸をした。

 

 そんなある日のことだった。

 那覇にある飲食店で、“内地”から仕事に来た男と知り合いになった。

 

 男は「沖縄の生活はどうだ」と訊ねた。松原が正直に感想を言うと、男は唇の端を少し上げて笑った。

 

「人もいい、天気もいい。でも沖縄は難しいよ」

 男はそう言って、酒の入ったグラスを飲み干した。

 

「1つの問題は、土地が狭いことだ。小さなパイを巡って、激しい取り合いになることが多い。狭いからと言って、1つにまとまるわけではないんだ。また、外から来る人間を表面上は排除するわけではないんだけれど、なかなか受け入れない。難しい場所なんだよ」

 

 適当に相槌を打っていたが、男の言葉を理解したのは、少し後になってからのことだった。

 

 そして松原はごたごたにも巻き込まれることになる――。

 

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


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