1606okabayashi20「小学校の時はいじめられっ子でしたね。やられても何も言わなかった」。岡林裕二は、幼少期をそう振り返った。力はあったが、その拳を誰かに向けて振るうことはしない。母・ユリは土佐弁交じりで「ヤンチャやったけど、大人しかったですね。身体は大きかったけど、ケンカもせんかった。滅多に怒る子やなくて、本当に優しかったきね」と証言する。その優しさや大人しさが仇となったのかもしれない。明朗快活な現在のキャラクターからすれば、少し意外な顔だった。

 

 小学生時代は、父親が監督を務める相撲クラブに入っていた。高知県は相撲が盛んな地域で、いとこには宮城野部屋に所属する力士もいた。相撲環境は整っていたが、岡林はそれを望んでいたわけではなかった。「嫌々始めた」という相撲。正直に言えば、廻しを締めるのも好きではなかった。

「それまでは争い事が嫌いだったんですよ。別に勝たなくてもいいと欲もなかった。だから、わざと土俵の外に出たりもしていました。“負けていいや。はよ帰ってゲームしたい”と。相撲はあまりやりたくないという感覚でしたから」

 

 そんな時に出合ったのがプロレスだった。3年時にかくれんぼをしていると焼却炉にプロレス雑誌が落ちていた。好奇心で開くと、いつの間にか夢中でページをめくっていた。「表紙はアニマル浜口、スタン・ハンセン、ビッグバン・ベイダーの3ショットでした。中を読んだらWCWというアメリカン・プロレスの記事にスティングが載っていたんです。それがかっこいいなと」。岡林少年はアメリカン・プロレスにハマり、何度もビデオを借りて見返した。気が付くとプロレスばかりを追いかけていた。スティングに始まり、スコット・ノートンなどパワフルでダイナミックな外国人レスラーを彼は好んだのだった。

 

1606okabayashi17 だが、この時の岡林はまだ「プロレスラー」という仕事に就こうとは本気で考えていなかった。元々、腕っぷしは強かった。あまりやる気のなかった相撲でも徐々に結果がついてくるようになる。4年時には県で3番に入った。優勝したのは1学年下の梶原大樹。現大相撲の豊ノ島である。梶原とは何度か胸を突き合わせることもあったが、一度も勝てなかった。岡林は中学に入学すると、相撲からもプロレスからも遠のいていく。

 

 中学では柔道部に入部した。「強さに憧れたんです。そのころは“ナメられたくない”“ケンカに負けたくない”。そういう感覚で柔道はやっていましたね」。柔道でも県3位にはなったが、優勝には手が届かなかった。本気でやっていなかった柔道を高校でも続けようとは思わない。「とりあえず高校に行かないと」。そんな理由で進んだ高知中央高校では、部活にも入らず遊び呆けていた。

 

 水が合ったウエイトリフティング

 

 担任からは進級できない事実を知らされた。学校を辞めて就職するという選択肢がないわけでもなかった。それに学校に残る場合には条件付きである。それでも岡林は後者を選ぶ。

「高校の先生からは『もし続けるなら部活に入れ』と言われました。それで、オレに一番合っているかなと思って、ウエイトリフティングをはじめました」

 

 力自慢の岡林には水が合っていた。「やり始めたら、ハマりましたね。やはり記録が伸びると面白い。県の競技人口少なく高知県でも3校しかないのですぐに1番になれました。四国大会でも優勝して、インターハイ(高校総合体育大会)に出ることができました」。留年してからの3年間、岡林はバーベルを挙げることに青春を傾けた。相撲、柔道は続かなかったが、ウエイトリフティングは違った。

 

1606okabayashi22 高知中央は強豪校ではなかったが、岡林は3年時のインターハイでは6位入賞を果たした。全国大会にも出場したことで、自らの名を上げていった。ついには大学からもスカウトがくる。高校卒業後は九州の大学で競技を続けるつもりだった。だが、彼の進路はある人物によって風雲急を告げることになる。

「ある日、自衛隊の地連(地方連絡部)の人が家に来て、『自衛隊入らないか?』と誘われたんです。『岡林くん、三宅(義行)さんが君のこと待っているよ』と。“オレのことをどこで知ったんやろ。こんな田舎もんを”と思いましたよ」。メキシコシティ五輪銅メダリストの大先輩の名前を出されたら、気持ちが揺らがないはずはなかった。「三宅さんが褒めてくれているのなら、“行くしかないやろ”と思って推薦が決まっていた大学も蹴って、自衛隊に入りました」

 

 本格的に競技を続けるためには自衛隊体育学校に入る必要があった。それも地連の人間が、橋渡し役を担っているはずだった。だが、連絡は全くと言っていいほど通ってなかった。「三宅さんが君のことを待っている」。この謳い文句も、当然本人が知らないところでの話だった。とはいえ、もう今さら後には引けない。やるしかなかった。

 

1606okabayashi19「集合教育というんですが、レスリング・ボクシング・ウエイトリフティングで共同にやるんですよ。いろいろな競技の選手と、全部で70人。その体力測定で1番だったんです。それはすごく自信になって、そこからオレもやる気になりました」

 非エリートの岡林。エリート集う自衛隊体育学校では生半可な努力では生き残れない。未完成なフォームを固めるため、1日約200本、バーベルを挙げた。その甲斐あってか、自衛隊体育学校に残るか残らないかの見極めのテストとなった記録会では、ライバルたちを押し退けてトップを獲得したのだった。

 

 しかし、練習ではそれなりの重量を挙げられるのに試合ではなかなか発揮することができなかった。

「スランプっていう言い方でいいのかわからないんですが、自分のなかではそんな感じでした。ジャークで170キロぐらいまでは一気に行ったんですよ。『もう次の年は行けるやろう岡林』と監督にも言われました。それで記録会が道場であって、そのときの男子94キロ級ランキング1位の記録を挙げたんです。これで全日本選手権いけるかなと思ったのですが、その年は大学生が数人、化け物みたいなのが一気に出てきたんです」

 

 甦るプロレスへの想い

 

1606okabayashi18 結局、全日本で勝つことはかなわなかった。“絶対優勝できる”。そう信じて疑わなかった自信は脆くも崩れ落ちた。「もうやる気をなくしましたね。“こんなに違うんや”と思って」。2006年の暮れには体育学校から離れることを決意した。その時に同僚のレスリング選手から「オマエ、レスラーになったらいけるんじゃない?」と声を掛けられた。「いや、いけんやろう」と返したものの、記憶の片隅に追いやられていたプロレスへの熱がふつふつと沸き上がってきた。プロレス雑誌を何気なく手に取るようになり、テレビのチャンネルはプロレス中継に換えていた。

 

 その時に目に留まったのが、大日本プロレスの関本大介だった。“あれ、この人知っている”。岡林に既視感があったのは、高校生の頃に新聞記事で読んだことがあったからだ。2歳上の関本は高知県の野球名門校・明徳義塾出身で、卒業後はプロレスラーを目指すという記事だった。岡林はブラウン管越しにリング上で躍動する関本に惹きつけられていた。

「そこからいろいろ調べて本を読んだら、有名な選手になっていた。“すごいなぁ”と思いながら、“今しかない”と思ったんです。24歳だったので、やるんだったら思い切って挑戦してみようかなと思ったんです」

 

 07年4月には部隊への異動が決まっていた。その前に岡林は意を決して、大日本へ履歴書を送った。しかし、待てど暮らせど彼の元には返事が来なかった。

 

(第3回につづく)

 

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1606okabayashi3岡林裕二(おかばやし・ゆうじ)プロフィール>

1982年10月31日、高知県南国市生まれ。相撲、柔道を経て、高校からウエイトリフティングを始める。高知中央高校時代は3年時に全国高校総合体育大会94キロ級で6位入賞。卒業後は自衛隊体育学校に入校し、06年の全国社会人選手権で同級3位に入った。08年にプロレスラーを目指し、大日本プロレスに入団。同年6月にデビューすると、09年には関本大介と組んでBJW認定タッグ王座を獲得。自身初となるチャンピオンベルトを手にした。10年にプロレス大賞の新人賞を受賞。11年3月には関本大介と組み、全日本のアジアタッグ王座を獲得するなど、最優秀タッグ賞に選ばれた。15年7月にBJW認定ストロングヘビー級王座を初奪取。同年のプロレス大賞では敢闘賞を受賞した。身長178センチ、体重120キロ。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

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