マイアミ・マーリンズに所属するイチローが現地時間15日、サンディエゴ・パドレス戦で日米通算4257安打を達成した。これによりヒット数でMLB最多(4256本)のピート・ローズを抜いた。前者は日米通算、後者はMLB通算の記録。一概に比較するのは難しいが、イチローの積み上げた数字が色褪せることはない。2001年にシアトル・マリナーズに入団してからMLBでの16シーズン目を迎えた。イチローならMLBでも通用するはず――。15年前、そう確信して書いた当時の原稿を読み返そう。

 

<この原稿は2001年1月の『月刊現代』に掲載されたものを一部再構成したものです>

 

「イチロー君にひとつだけ忠告しておきたいことがあるんですが……」

 テキサスレンジャーズでスカウトを務めるリチャード瀬古氏は心配そうな口ぶりで語り始めた。

 

「彼は構えるとき、バットのヘッドをピッチャーに向けるでしょう。あれはメジャーリーグにおいては威嚇行為。中指を突き立てるのと同じような意味にとられるのです。気の短いピッチャーは報復行為に出る可能性があります。特に気をつけなければならないのがドミニカの若いピッチャー。陽気な反面、ケンカっ早く、カッとなると何をやるかわからない。デッドボールでケガをして、シーズンを台無しにするようなことがなければいいのですが」

 

 リチャード氏の指摘するように、イチローにはバッターボックスで構える際、軽くスイングしてバットのヘッドをピッチャーに向けるクセがある。日本においては見慣れた光景だが、これがアメリカでは報復の対象になるというのだ。バットのヘッドを向けるのは、アメリカの野球においては銃口を向けるのと同じことを意味する。ルールブックの上では何ら問題はないが、カスタムの上では許されざる行為というわけだ。

 

 余談だが、バッターがホームランを打ったあとバットをポーンと放り投げたり、ダイヤモンドを一周する際、腕をまくってこれ見よがしに手首を突き上げたりするのも、非紳士的行為と見なされる。バットのヘッドを向けるなんて、もっての他というわけだ。

 

 もちろんイチローにピッチャーを威嚇しようという意思はない。日本人なら、野球に興味のない人でも彼が紳士であるということを知っている。だから、バットのヘッドを向けられたことに怒り、報復球を投げつけるような不遜なピッチャーはいなかった。

 

 しかし、イチローのプレーする場所はアメリカである。イチローが日本を代表するバッターであることくらいは知っていても、彼のパーソナリティまで聞き及んでいる者は皆無に等しい。銃口を向けられたら、やはり黙ってはいないだろう。目には目を、歯には歯を――。これこそが130年近い歴史を誇るメジャーリーグの不文律だからである。

 

 メジャーリーグの、いやアメリカの野球を見ていて常に思うのは、西部劇に似ているということである。基本は18.44mをはさんでのピッチャーという名のガンマンと、バッターという名のガンマンの対決であり、そこでは正々堂々とした立ち居振る舞いが求められる。危険なボールを投げる、あるいはバットで投手を威嚇するような行為は非紳士的行為と見なされ、報復の対象となる。やられたらやり返すという、きわめてシンプルな暴力の互換性、つまり抑止力こそがベースボールというスポーツの根底の部分を支えているのである。

 

 先にベースボールが西部劇に似ていると言ったのは、かりにお互いが背を向けて10歩下がって撃ち合うという約束事があるにもかかわらず、9歩目で振り返って銃を構え、相手を撃てば、そのガンマンは間違いなく縛り首にあう。これは許されざる行為だからだ。

 

 アメリカの野球において、最も忌み嫌われるピッチャーはバッターの首から上を狙うピッチャーである。「ネックハンター」と呼ばれ、次に打席に立てば自らも同じような目にあう。指名打者制度の場合は、主力打者が身がわりにされることがしばしばある。

 

 また強者が弱者をいたぶるような行為も許されない。たとえば10対0で大量リードの場面で二塁ランナーが三塁に盗塁すれば、その時点で打席に立っているバッターは標的に早変わりする。傷口に塩を塗るような行為は、この国の人たちにすれば卑怯千万というわけである。

 

 昔、西部劇でルールに則って相手を射殺しながら、群衆たちに取り囲まれ、なぜか若いガンマンが絞首刑台に乗せられるシーンがあった。この男、よせばいいのに、死体にまで弾丸をぶち込んでしまったのだ。死者を冒涜した行為と見なされたのである。

 

 サッカーにおいても、一度ゴールに蹴りこんだボールを腕組みしたままのゴールキーパーの前で、もう一度蹴りこんだりするとイエローカードの対象となる。死者をムチ打つ行為に対するペナルティは一様に重い。

 

 少々話は横道に逸れるが、日本野球にあってアメリカ野球にないもの――それはサイン盗みである。98年の暮れ、ダイエーの選手がアルバイトまで使ってキャッチャーのサインを盗んだとされる、いわゆる“スパイ疑惑”が発覚したことで球界の信用は一気に失墜した。この事件を取材していた、あるアメリカの通信社の記者は、こう言って私を驚かせた。

「ベンチがサインを解読する、いわゆる“サイン破り”ならアメリカにもあります。しかし、外部から球団関係者が双眼鏡を使ってキャッチャーのサインをのぞくようなことは絶対にありません。もし、そんなことがバレたら、のぞいた人間はピストルで撃たれても文句は言えません。これは比喩ではなく、現実的な意味で言っているのです」

 

 99年暮れ、野茂英雄(デトロイト・タイガース)と佐々木主浩のラジオでの対談をプロデュースした。そこで、こんなやり取りがあった。

 

佐々木: メジャーでも“クセ盗み”や“球種盗み”をやるヤツっているの?

 

野茂: ウーン、球団単位でやっているのか個人単位でやっているのかはわからないけど、そういうヤツもいますよ。

 

佐々木: ただサードベースコーチが投げる直前に“フォーク”とか、言ったりしないよね。

 

野茂: それは言わない(笑)。そんなことまでやったら、もうメジャーって感じじゃなくなるでしょう。佐々木さん、日本では相当やられたの?

 

佐々木: 相当なんてもんじゃない。それで日本のプロ野球が嫌になった部分だってあるわけだから。

 

野茂: 僕も日本にいるころには相当やられたなぁ。

 

佐々木: あれって気にし始めると、もう切りがないんだよね。そんなの気にしないで投げろ! って人もいるけど、そんなに簡単なもんじゃない。

 

野茂: 確かに……。

 

佐々木: ほら、日本のプロ野球って、“球種盗み”や“クセ盗み”も芸のうちって考え方があるでしょう。そこまで研究するのがプロなんだって。

 でもオレ、それって違うと思うんだよね。プロだったら、そんな卑怯なことしなくったって打てるだろ! と言い返したい。アマチュアじゃないんだからさ。お客さんだって、そんなセコい勝負、見たくないと思うよ。

 

野茂: でも、アメリカじゃそこまで気にする必要ないですよ。卑怯なヤツにはぶつけてやればいいんだから……。

 

佐々木: エッ!

 

野茂: だから、ぶつけてやればいいんですよ。サインのぞいたり盗んだりするような卑怯なヤツには思いっきりデットボールを投げつけてやればいい。のぞくほうが悪いんだから、それで骨折したって、こっちは知ったこっちゃない。それがメジャーの考え方ですよ。

 

 話をイチローに戻そう。銃口をピッチャーに向ける行為に危険が付きまとうことは先に述べたが、かといって、それをやめてしまうというのもイチローらしくない。一連の動作はイチローのバッティングの一部であり、急に変えればリズムに変調をきたしてしまうおそれもある。

 

 しかし、これに関しては実は私はさほど、心配していない。最初のうちはともかく、時間がたてばアメリカの選手は敵意ではなく個性として認めるようになるからだ。

 

 伊良部秀樹(当時モントリオール・エクスポズ)がメジャーリーグデビューを果たしたばかりのころだった。セットポジションの際、グラブの位置が流れたとして、伊良部はアンパイアから何度もボークをとられた。「新入り」をいじめるのはアメリカも日本も同じだが、敵意をむき出しにする伊良部のキャラクターが余程、気に食わなかたのか、「いじめ」は丸々、1年に及んだ。

 

 しかし、2年目のシーズンから「いじめ」はピタリとやんだ。伊良部の実力が評価されたこともあるが、それ以上に伊良部のセットポジションがひとつの個性として認知されたことが大きかったのではないか。

 

 ともあれ、イチローの独特のフォームがどんな波紋を呼ぶのか、好奇の視線ではなく、カルチャーギャップを語る上での材として着目してみたい。

 

(後編に続く)


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