取材は縁と運が必要だというのがぼくの考えだ。例えば、ある人物を取材したいとこちらが熱望していても、向こうにその気がないことがある(もちろん、それでも周辺を調べて書くという手法もあるが)。その場合、ぼくは無理に押さず、いい巡り合わせとなることを待つ。

 

 一方、こちらは興味がなかったのにひょんなきっかけで面白いと感じて、追いかけ始めることもある。松原良香の場合は後者だった。

 

 この連載の第1回で書いたように、松原とは2002年10月にブラジルで出会っている。彼はアビスパ福岡と契約終了後、ウルグアイに渡ったが、外国人枠の関係で契約できず、ブラジルのクラブの練習に参加していた。その後、ぼくたちはしばしば連絡を取り合う仲となった。

 

 彼と再会したのは、2003年6月のことだった。この年から松原は沖縄の「かりゆしFC」に加入していた。

 松原は那覇市の中心部、繁華街から少し離れたホテルに住んでいた。約束した近くの食堂に現れた松原は、真っ黒に日焼けしていた。そして顔をほころばせて「元気でしたか」と手を差し出した。ただ、調子を訊ねると、「動けないっす、全く動けない」と顔をしかめた。

 

「1年半のブランクというのは大きいですね」

 福岡以降、試合に出場していなかったツケが回ったという。

 

「ここに来たとき(体重が)83キロあったです。今は75、8キロ落ちました。1月下旬、試合に出たんですが、全然フィットしていなかった。(監督の加藤)久さんにも謝ったんです。“自分の力を発揮できなくて、情けないです”と」

 

 特にフォワードにとって生命線とも言えるキックの感覚がなかなか戻らなかった。

「例えばインサイド(キック)で巻いて(コースを狙って)蹴ったりしますよね。そのときにボールスピードとか方向がかつてと違う。自分では強く打っているつもりが弱かったり。あとは試合勘。前は相手の選手の場所を瞬時に頭に入れて動けていた。今、その感覚がつかめないので、できるだけ簡単にプレーするしかない。ようやく昨日ぐらいから、どこに相手の選手がいるのか感じられるようになってきました」

 

 周囲に相手チームの選手がいないと分かっていれば、前を向いて、勝負してクッといけるんです、と松原は上半身を素早く動かせてみせた。

「今は、自分が決めるよりも、アシストが多い。久さんにはお前は全国(地域リーグ決勝)大会まで見せないと言われていますしね」

 

 地域リーグには松原のように代表歴のある選手はほとんどいなかった。五輪代表としてブラジル代表に勝利した経験のある松原には相手のマークが集中する。トップフォームに戻るまでは“名前”を使って、試運転すればいいというのが監督の考えだったのだろう。

 

JFLへの道

 

 九州リーグではかりゆしの戦力、バックアップ体制は飛び抜けていた。

 選手の多くは、Jリーグでの経験があり、ほぼ全員がプロ契約を結んでいた。恩納村にはかりゆしFCのために建設された人工芝のグラウンドまであった。

 

 もちろん、沖縄ならではのデメリットもある。近隣にJリーグのクラブがないため、格上の対戦相手と腕を磨く機会が限られていた。昇格を決める全国地域リーグ決勝大会に参加するクラブの力量は拮抗している。そうした重要な場面で競り負けてしまうことが多かったのだ。松原の力が必要とされていたのは、この決勝大会だった。

 

 2003年シーズン、かりゆしFCは予想通り、九州リーグ優勝、そして決勝大会に進んだ。

 

 決勝大会では、北海道から九州までの地域リーグの優勝クラブなどが4つのグループに分かれて第一リーグを戦い、各リーグ首位のみが決勝ラウンドに進む。

 

 かりゆしFCは、東海代表の静岡FC、関西代表の高田FCとCグループに入った。静岡FCは、三浦知良の父・納谷宣雄が立ち上げたクラブだった。

 

 納谷ともぼくは付き合いがあり、試合を何度も見に行っていた(後に『キングファーザー』という本を書くことになる)。この2つのクラブが同じ組に入り、片方しか勝ち抜くことができないというのは、ぼくにとって悪い冗談のようだった。

 

 静岡FCは前年度も決勝大会に進出。2位までに入れば入れ替え戦に出場できたのだが、3位で昇格のチャンスを逃していた。元ジュビロ磐田の清野智秋などを擁し、この年も昇格有力クラブの1つだった。

 

 第一リーグCグループの会場は徳島県の鳴門総合運動公園陸上競技場だった。この直前、ぼくはフランスのモンペリエに所属していた廣山望を取材していた。モンペリエからパリ経由で帰国、一度帰宅した後、飛行機で大阪に飛んだ。梅田駅発のバスで徳島に入り、そこから鉄道で鳴門駅へ。駅から競技場までは、荷物の詰まったリモワのキャリーバッグを転がして歩かねばならなかった。

 

 この日、11月15日は、かりゆしFCと高田FCの試合が行われていた。前日、静岡FCが高田FCを5対2で下していた。力の差を考えると高田FCのグループ突破の可能性はほぼ消えていた。かりゆしは、楽に勝っておかなければならない相手だった。松原からは静岡FCとの試合に備えて高田戦は出場しないだろうという連絡をもらっていた。

 

 ところが――。

 

 かりゆしはワントップで臨んでいた。そして守備ラインでボールを持つと、前線に長いボールを蹴りこむという攻撃だった。しかし、ボールを放り込んでもフォワードは1人である。当然、2人のセンターバックに挟まれてキープすることができない。格下であるはずの高田FCの方が、背番号10の選手を中心にパスを繋いでしっかりと試合を組み立てていた。

 

 それでも前半、かりゆしはこぼれ球を拾って先制。風上となった後半にも高田FCのミスから2点を加えた。試合は3対1で勝利したが、薄い内容だった。

 

 その夜、松原の泊まっている宿舎の近くで会うことになった。彼は不満げな表情だった――。

 

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


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