W杯の出場国が16から24に拡大された時、ベテラン記者たちは“水増し”によるレベルの低下を嘆いていた。実を言えば今回、欧州選手権に関してわたしが持っていた印象は、かつて先輩たちがW杯について抱いていたものと同じだった。

 

 だが、出場国が増えてもW杯はW杯のステータスを保ち続けたように、欧州選手権もまた、欧州選手権のままだった。というより、こんなにも新鮮で、かつ驚きの多かったユーロはちょっと記憶にない。

 

 国歌吹奏の際、作曲家、作詞家の名前をきちんと明記していたWOWOWの中継も嬉しい驚きだった。少なくともわたしは、世界のどの国の中継でもこうしたテロップは見たことがなかったし、ともすればマニアックな方向に走りがちだったサッカー中継に、新しい視点をもたらしてくれた、とも思う。こうなれば、次の国際大会の際には、国歌の和訳も紹介していただけるとありがたい。その国の人たちがどんな歌詞で心を一つにしているのか。俄然興味がわいてきたからだ。

 

 大会のアンバサダーを務めたハリルホジッチ監督の解説も興味深かった。特に「ボールを保持しているチームが勝てる時代は、もう終わった」という言葉には、思わずニヤリとさせられた。

 

 確かに、フランスに敗れたドイツは、そしてポルトガルに敗れたフランスは、ボール保持率では優勢だった。この概念を世界に広める上で大きな役割を果たしたスペインの早期敗退も、ハリルホジッチ監督の言葉の正しさを裏付けているようにも見える。

 

 だが、今にして思えばボール保持率にこだわるサッカーの弱点に、誰よりも早く気づいていたのはグアルディオラだった。バルセロナ時代、あえてイブラヒモビッチを獲得したのも、バイエルンでレバンドフスキにこだわったのも、それゆえだったのだろう。なるほど、決定力こそは保持率を打ち破る最大の武器ではある。

 

 ただ、だからといってグアルディオラは保持率へのこだわりを捨てたわけではない。保持率は勝利を約束するものではなくなったかもしれないが、敗北の可能性を減らす手段として最上のものであることに代わりはない。

 

 いまのところ、日本のサッカーにはDFの失点に髪の毛を掻きむしって激怒し、プレー続行が不可能になれば涙を流して悔しがるような絶対的ストライカーはいない。出る杭を打つのが好きな国民性を考えると、今後もぞろぞろと出てくることは考えにくい。

 

 わたしは、たとえ世界の趨勢が決定力重視の方向に向かおうとも、日本だけはボール保持率にこだわるべきだと思う。決定率よりは、決定的場面の数で勝負すべきだと。

 

 さて、ハリルホジッチ監督のコメントは、一般論だったのか、それとも、日本代表監督として、だったのか。そこが何より、興味深い。

 

<この原稿は16年7月14日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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