16fukuda2 2008年9月より携帯公式サイト「二宮清純.com」、当HP『さすらいのgoleador』を連載してきた福田健二さんが、15-16シーズンを持って現役を引退しました。日本、パラグアイ、メキシコ、スペイン、香港と渡り鳥のように世界中を転戦したストライカーは横浜FCの強化ダイレクターとしてセカンドキャリアを歩み始めました。今回は最終回特別編として20年の現役生活について振り返っていただいたインタビューをお送りします。

 

――現役にピリオドを打たれてから休息も束の間、香港から日本に帰国されて7月1日から横浜FCの強化ダイレクターに就任されましたね。

福田: 仕事を始めてから1カ月弱ですけど、トップチームをメインにしてユース、ジュニアユースにも目を配りながら強化の仕事をやらせてもらっています。まだ具体的にこういうことをやりなさいと言われていないので、今はいろんなことを勉強しながらではありますけど正直、慣れていないので頭がいっぱいになっています(笑)。凄くやりがいのある仕事をやらせてもらっています。

 

――帰国前には、家族水いらずで旅行に出かけたそうですね。

福田: フィリピンのセブ島に行きました。家族旅行は5、6年ぶりですかね。現役を終えて、日本に戻って次のチャレンジで頑張ろうということで、家族で楽しみました。海がきれいで、おいしいものをみんなで食べて……ひとときの安らぎと言いますか、もうだいぶ前に行ったような感じですね。

 

――今回は連載コラムの最終回ということで、プロ20年の道のりを振り返っていただければと思います。千葉・習志野高から名古屋グランパスエイトに入団したのが1996年。のちにアーセナルを率いる名将アーセン・ベンゲルが監督を務め、チームの大黒柱にはピクシーことドラガン・ストイコビッチがいました。どういう経緯で入団を決めたのでしょうか?

福田: 高校に足しげく通っていただいた平木隆三さん(初代名古屋監督)から「ベンゲルという素晴らしい監督がいて、ストイコビッチがいる。福田くんのサッカー人生に、きっとプラスになる」と誘われて、僕も実際に名古屋の試合を観て、ピクシーに魅了されました。一緒にプレーしたいと思って、平木さんに「よろしくお願いいたします」と伝えたんです。

 

――3月のゼロックススーパーカップでいきなり1ゴール1アシストと活躍します。

福田: 運良くというか、長い目で見ると運悪くというか……。卒業式の前日にあの試合があって活躍することができて、まあ予想できると思うんですけど卒業式では人気者になって(学生服の)ボタンが全部なくなりました。それが勘違いの始まりでプロ意識に欠けて、1、2年目はゼロというよりマイナスまで落ちていった感じです。兄貴いわく「打ち上げ花火」だと。持ち上げられてどこか調子に乗ってしまったのが僕の1、2年目でした。

 

――でも2年目にはU-20代表の一員として世界ユース選手権に出場してベスト8に進出しました。名古屋でも出場機会が増えていきました。

福田: 世界ユースは吉田孝行さんがケガで参加できなくて、追加招集という形でした。調子に乗ってマイナスからスタートしていたので、謙虚にトライできたのかなとは思います。コスタリカ戦でゴールすることができて、同世代の世界基準というものを感じ取ることもできました。世界でやってみたいという思いが強くなったのもこの時期。名古屋でも謙虚にトライしていかなきゃと思って取り組んでいました。

 

 ピクシーから学んだこと

 

――3年目の1998年にはチームトップの16ゴールを叩き出し、4年目も2ケタゴールを挙げます。特にピクシーとのコンビネーションは抜群でした。

福田: 入団してピクシーに「お前、俺としゃべりたいか、しゃべりたくないかどっちだ」と聞かれて「しゃべりたいです」と答えると、「じゃあ英語を勉強してこい」と。個人レッスンを受けるなどしてピクシーとまあまあ会話できるようになって、練習が終わっても指導してもらったり、一緒に腕立て伏せや腹筋もしました。僕のなかでは師匠のような存在で、可愛がってもらいました。試合後、ホテルに戻って「ビールとつまみを買ってこい」とパシリに使われましたけど、喜んでやってましたね。

 

16fukuda3――ピクシーとの思い出と言うと?

福田: ヴィッセル神戸との試合(99年3月)で僕がピクシーのアシストでゴールを決めたときのことです。試合の前日、故郷ユーゴスラビアのコソボ紛争について話をしてくれて、その途中に国際電話が掛かってきて爆音が聞こえてきました。精神状態としてはかなり厳しかったと思うし、自分なりにピクシーの思いというものをくみ取ることができました。そんななかでゴールを奪うことができて、ピクシーも『NATO STOP STRIKES(NATOは空爆をやめろ)』とアンダーシャツに書いたメッセージを発信しました。

 ほかにもいろんなエピソードがありますよ。4連敗した次の試合で僕が途中出場してゴールを決めて勝つとアルマーニのベルトをプレゼントしてもらったことがあるんです。メッセージがついてあって「お前のゴールで連敗を食い止めることできた。ありがとう」と。うれしかったですね。

 

――ピクシーから学んだこととは?

福田: いっぱいありますけど、逆境に立たされたときの精神力ですかね。ときに激しすぎるほどの言動、ジェスチャーがあっても、チーム全員が心で感じ取ることができて誰も反発しなかった。みんなピクシーについていこうという思いがありました。自分もこういうプレーヤーになっていかなきゃいけないと強く感じました。

 

 初の海外移籍

 

――名古屋には5年半在籍し、FC東京、ベガルタ仙台を経て2004年にパラグアイに渡ります。ここから世界さすらいの旅が始まっていくことになります。移籍先は首都アスンシオンにある古豪グアラニでした。

福田: あのとき26歳になっていてこれからのサッカー人生を考えたとき、ここで飛び出さなかったら後悔するだろうなと。日本ではベンチが続いていて、ときどき途中出場するという状況。サッカーをやっている感があまりなかった。グアラニでの給料は日本の10分の1ほど。家族がいましたし、周りからは「お前は何を考えているんだ」と反対されましたけど、活躍してステップアップするぞという思いで海を渡りました。

 

――スペイン語は勉強していたのですか?

福田: いや、ピクシーと話すために英語は勉強していましたけど、スペイン語はまるっきりゼロ。最初の3カ月はきつかったですね。

 

――どうやって習得していったのでしょう?

福田: スペイン語を覚える教材がなかったので、辞書を引いて新聞を読んでいこうと思ったんです。自分の写真が載った記事があったので訳してみたら「この日本人は観光で来ている。おそらくもって3カ月だろう」と。うわーって思いましたよ。でも、やっぱりこの状況を変えていかないとどうにもならない。パラグアイではチームでマテ茶を回し飲む風習があって、僕も辞書を持って参加しました。たまに話題を振られることがあって、前日に用意した話をスペイン語でたどたどしく言うわけです。するとチームメイトもこいつに何とか言葉を教えてやろうみたいな雰囲気になって、そうしたらピッチでもボールが回るようになった。

 それに毎朝、ハグをする文化があって距離を近づける意味では良かった。次第に言えることも言えるようになって、自然にスペイン語も上達していきました。ゴールを決めたのがリーグ2戦目。僕を批判していた新聞もいつだったか『フクダは期待できる』と論調が変わっていましたね。

 

――半年間の契約だったのが、活躍して契約延長にこぎつけます。移籍初年度で2ケタの10ゴールを挙げました。

福田: 自分の実力がどうなのかもう一度再確認できるチャンスだと思って、とにかく結果にこだわりました。パラグアイは南米のなかでも比較的親日家が多くて、アスンシオンにはJICA(国際協力機構)で働く日本の方が応援にきてくれたこともありました。日本食のレストランもあったし、パラグアイの生活に馴染んでいくことができましたね。

 

――福田さんが求めていたものが、ここにはあったと?

福田: ありました。プロというのはやはり結果ありき。試合に出ていないのにお金をもらっていた日本では悶々としていたので、余計な考えがそぎ落とされていくような感覚でした。結果を出せば、ステップアップできる世界。チームにはパラグアイの世代別代表の若い選手たちがいて「俺は欧州に行くんだ」「俺はメキシコだ」と、みんながみんな自己主張している。このなかで結果を出さないと生き残っていけない。ここから自分のトライが始まっていくんだなという実感を得ることができました。

 

(後編に続く)

 

(聞き手/二宮寿朗)


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