リオ五輪開催期間中の8月16日(現地時間)、地元出身のスポーツ界の大立者が他界した。元FIFA会長にして元IOC委員のジョアン・アベランジェ。100歳だった。

 

 これほど評価の分かれる人物はいない。まず「功」の部分だが、この御仁がいなければ、サッカーの発展が遠くアジアやアフリカにまで及ぶことはなかっただろう。彼がトップに就くまで、FIFA会長は全て欧州出身者によって占められていた。その意味でブラジル人のアベランジェは“新興勢力の星”だった。

 

 アベランジェが推進したW杯拡張政策は欧州中心主義へのアンチテーゼでもあった。元FIFA理事の小倉純二は「メキシコW杯が開催された1986年に、アベランジェ会長(当時)が“21世紀にはアジアやアフリカでW杯をやってもおかしくない”と言ってくれたのが、日本がW杯招致を考えるきっかけになった」と語っている。

 

 アベランジェは自他ともに認める日本の後見役でもあった。だが剛腕ゆえに反発も強かった。権力を巡る水面下の暗闘が表に出たのが韓国との間で争われた02年W杯の招致合戦だ。

 

 日本は韓国より3年も先に立候補したにも関わらず、結果的には“敗北に近いドロー”に終わった。敵の敵は味方とばかりに、レナート・ヨハンソンUEFA会長は理事会前、韓国支持をほのめかせるとともに、「一国単独開催を原則とする現規約を改定すべき」と共催カードを切ってきた。

 

 もし、これをはねつけ、規約どおり投票で雌雄を決した場合、どうなるか。「欧州8票、アフリカ3票、これに韓国票が加わると10対12で負ける公算が強い」(衛藤征士郎招致議連幹事長兼事務総長)となり、日本は不本意ながらも「共催」(Co-hosting)をのむしかなかった。それは同時にアベランジェ独裁体制の終焉をも意味していた。

 

 最大の「罪」は24年に及ぶ長期支配により、FIFAを“開発独裁”色の強い組織に染め上げたことだ。それは自らの支持基盤にそのまま乗るかたちで会長に就任したゼップ・ブラッターに引き継がれ、一連の汚職スキャンダルへと発展していく。

 

 最大値で交錯する功と罪。アベランジェとは何者だったのか。怪物の庇護の下に育った日本協会には検証の義務があるように思われる。

 

<この原稿は16年8月24日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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