本当の自信家は「自分は凄い」などとは言わないものだ、と信じている。なので、昨今“日本礼賛バラエティー”とも言うべき番組が人気を博しているのは、根っこの部分で自信を持てない日本人が多いことの表れか、などと思っていた。

 

 今回のリオ五輪を見ていて一番驚いたこと。それは陸上男子の400メートルリレーでケンブリッジ飛鳥にバトンが渡ってからの約9秒間、夫婦揃って絶叫してしまったことだった。ゴールの瞬間には、途方もないほどの達成感と満足感を味わってしまった。あの感動に匹敵するのは、わたしの中ではジョホールバルでW杯初出場の瞬間に立ち会えたこと、しかない。

 

 なぜあれほど興奮し、感動したのか。思うに、わたしの中には「陸上の短距離では絶対に日本人は勝てない」という思い込みというかコンプレックスのようなものが、心の奥底まで染みついていたからなのだろう。ボクシングの重量級では勝てない。水泳の自由形では勝てない……自問してみると、日本人であることを理由に、勝手にリミッターをかましてしまっている競技、種目がいくつもあった。

 

 アメリカには、白人には、黒人には、どうやったって日本人では勝てない競技がある――知らず知らずのうちに、わたしはそう思い込んでいた。サッカーの日本代表がアジアで負けるのは許せないのに、W杯での負けには納得してしまっているところがあるのも、きっと、根っこは一緒である。

 

 だから、山縣、飯塚、桐生、ケンブリッジの4人がなし遂げたことは、日本人のあり方を根底から覆してしまうぐらい、とてつもない快挙ではないかと思う。あの銀メダルを見た子供たちは、「日本人では陸上の短距離は勝てない」などとは断じて思わない。自分たちの運動能力が、他の人種、民族に比べて劣っているとも思わなくなる。

 

 技術を極めることで、タイムという無慈悲な数字とも渡り合えるのであれば、もっとあやふやで、もっと技術介入の度合いの高いサッカーならば、さらなる高みを目指すことができる。というより、サッカーでも世界一を目指す子供が、当たり前になるかもしれない。

 

 考えてみれば、日本の五輪スポーツの多くは、欧米の模倣であり続けてきた。サッカーにしても、世界の流行に飛びつくことはあっても、日本のスタイルを世界へ向けて発信したことはない。

 

 だが、陸上のリレーは、他国がやらないバトンパスをした。結果は残せなかったが、水球の日本代表も独創的な戦術で世界と戦った。機は、いよいよ熟しつつあるのかもしれない。

 

 選手なのか、それとも指導者なのか。いずれはサッカーにもジャパン・オリジナルのスターが出現するであろうことを、リオ五輪は確信させてくれた。阪神は不甲斐なくとも、気分は明るい。

 

<この原稿は16年8月25日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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