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(写真:かりゆしFC退団後、静岡FCに移籍した松原)

 2004年シーズン前、松原良香は今年もかりゆしFCでプレーすべきか、心が揺れていた。

 

 前シーズンが始まったばかりの頃、身体が思ったように動かなかった。ウルグアイでクラブが決まらずプレーできなかった空白の1年間の影響だった。それが試合を重ねるうちに感覚が戻っていくことを感じていた。すると国内の幾つかのクラブから誘いをもらっていた。

 

 松原は29歳になっていた。年齢を考えれば、国外でプレーする最後の機会だという気持ちもあった。

 

 しばらく悩んだ末、かりゆしFCに居続けることを決めたのは、主将としてチームを支えていかなければならないという責任感、そして沖縄に対しての愛着だった。

 

 しかし、松原はこのとき足元がゆっくりと崩れ始めていることに気がつかなかった――。

 

 2003年の終わり、かりゆしFCの社長だった平良朝敬がその職を降りている。

 

 平良は沖縄資本最大のホテルチェーン、「かりゆしグループ」の最高責任者である。沖縄県には主たる製造業がない。主幹産業は観光事業であり、平良は沖縄財界の重要人物の一人である。

 

 平良とサッカーのつながりは長い。この10年以上前から沖縄で自主トレーニングキャンプを張る選手たちは、平良を頼っていた。

 

 恩納村にあるかりゆしグループの敷地内には人工芝の練習グラウンドがあり、かりゆしFCの選手、ほぼ全員がプロ契約を結んでいた。これらはすべてかりゆしグループ、つまり平良の資金的な支援によるものだった。

 

 かりゆしFCは最大の後ろ盾を失うことになったのだ。

 

 シーズン前のキャンプが始まると、監督の加藤久とフロントの齟齬を選手たちも感じるようになっていた。

 

 2004年5月、松原は新聞社の人間からの電話で、かりゆしグループが、かりゆしFCのスポンサーを撤退することを知った。

 

 記者会見席上で、かりゆしFCは「球団自体は継続する。解散ではない」と発表した。

 

 しかしクラブの運営費の約半分がかりゆしグループ企業からの出資に頼っていた。残り半分のほとんども関連会社によるものだ。資金引き揚げはクラブの活動停止を意味した。

 

 松原は選手を集めて、毎日クラブの存続に向けて話し合い、監督の加藤は沖縄を中心に支援企業を探した。

 

 この突然の撤退発表に、はっきりとした理由を見つけることは難しい。

 

 ただ、伏線はあった。その1つが呼称である。

 

 Jリーグの理念を知悉した加藤は、以前から「かりゆし」という名前が企業名であり、Jリーグ昇格を考えるならば名前を変えなければならないとクラブ内外で話していた。これは平良には心地良いものではなかっただろう。それまで彼は毎年数千万円の資金を、かりゆしFCに投入してきたのだ。その果実を受け取ることは当然だと考えていたはずだ。

 

 大学で教鞭を執った経験もある元日本代表の加藤は弁舌が巧みで、メディアの扱いに慣れていた。そうした加藤に沖縄の人間たちが気後れし、口を閉ざしていたことは想像できる。その亀裂は時間が経つにつれ大きくなった――。

 

 2004年9月、監督の加藤と松原を含む全27選手の退団が発表された。

 

 敗戦後に笑顔のチームメイト

 

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(写真:ASラランジャ京都FC戦でプレーする松原)

 翌月、松原は静岡FCに移籍した。静岡FCは、JFL昇格を懸けた全国地域リーグ決勝大会の出場権を得ていた。この試合のための助っ人である。

 

 この年の全国地域リーグ決勝大会は、高知市にある県立春野総合運動公園で行われた。

 

 ぼくはこの大会を取材するため、飛行機で羽田から高知まで飛んだ。

 

 静岡FCはCグループ、三菱自動車水島FCとASラランジャ京都FCと同組になっており、初戦の相手は三菱自動車水島だった。

 

 春野総合運動公園は交通の便が限られている。空港を出たタクシーは海沿いの道を走った。ちょうど車が競技場に着いたとき、長い笛の音が聞こえた。もう試合は始まっているはずだった。

 

 三菱自動車水島はそれほど強くないと聞いていた。静岡FCが先制したのだと思って、競技場の階段を駆け上がった。ところが電光掲示板を見ると、先制したのは三菱自動車水島だった。

 

 得点を挙げなければならないと焦ったのか、静岡FCは前掛かりになって攻めた。静岡FCのツートップは、松原と新居辰基だった。

 

 新居はコンサドーレ札幌の下部組織出身の将来を嘱望されるフォワードだった。この年の8月に酒気帯び運転により人身事故を起こし逮捕、クラブから解雇処分を受けていた。静岡FCは昇格の掛かったこの大会のために新居と契約したのだ。彼もまたこの大会用の飛び道具だった。ところがこの二人のシュートはなかなか枠を捉えられない。

 

 結局、1対2――。

 

 翌日、三菱自動車水島はラランジャに勝利、あっさりと一次ラウンド勝ち抜きを決めた。

 

 取材メモに、ぼくはこんな風な殴り書きをしている。

<三菱自動車水島とラランジャの試合後、午後3時からサブグラウンドで静岡FCの選手たちが練習。一次ラウンド敗退が決まったというのに、ボール回しで笑っている選手が多い。良香は苦々しい表情でそれを見ている>

 

 そして静岡FCはラランジャに3対1で勝利した。なんの意味もない勝ちだった。

 

 松原は翌年、静岡FCの監督兼選手となった。

 

 2005年シーズン、静岡FCは東海リーグを勝ち抜き、全国地域リーグ決勝大会に進出した。しかし、またも一次ラウンドで敗退している。

 

 決勝ラウンドを勝ち抜き、JFLに昇格したのは、かりゆしFCから離脱した選手たちが作ったFC琉球だった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


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