圧巻は9月17日のジャイアンツ戦だった。江夏はこの日まで346個の三振の山を築いており、稲尾和久の持つ奪三振記録にあと7つと迫っていた。

 

<この原稿は1993年9月号の『Number』に掲載されたものです>

 

 江夏は初回から快調に飛ばし、4回終了時までに7個の三振をマークした。タイ記録となる7個目は4回に王貞治から奪ったものだった。だが、ここで江夏はハタと困ってしまう。新記録となる8個目を、ライバルの王から奪うためには、打者を一巡させなければならない。要するにその間、一つも三振を奪うわけにはいかないのだ。

 

 だが、このタイトロープを江夏は見事に渡り切った。三振を奪うわけにはいかないが、さりとてヒットを打たせるわけにもいかない。機転をきかせた江夏はタイミングをはずしたストレートを、バッターの好きなコースからわずか右(左)寄りに投げ、難局を乗り切ってみせたのである。

 

 王から奪った記念すべき354個目の三振は、ど真ん中ストレート。辻恭彦のミットが悲鳴をあげるほどの快速球だった。

 

 長嶋-村山の対決とならび、数々の名勝負を繰り広げた王と江夏。両雄が最後まで力と力の対決にこだわったのは、王が最も三振をとられた投手が江夏(57勝)であり、江夏が最もホームランを打たれた打者が王(20本)であるという事実からも明らかであろう。

 

 わけても1971年9月15日の対決は、きわめつけの名勝負と呼ぶにふさわしいものであった。タイガース2対0で迎えた9回表、2死一、二塁の場面で打席にはこの日3三振の王が立っていた。江夏が投げ勝てばゲームセット、王のホームランが飛び出せば一転してジャイアンツ、一打逆転の場面である。

 

 カウント2-0と簡単に追い込んだ江夏。3球目は最も得意とする内角低目(右打者からすれば外角低目)のストレート。王が上げた右足スレスレに快速球が通過した。

 

「ボール!」

 

 谷村友一主審の右手がかすかに動きかけたが、思い直すように止まった。

 

「何いうてんねん? 何であれがボールや?」

 マスクを脱ぎ捨てるなり、キャッチャーの辻恭彦は激しく詰め寄った。

 

 4球目、またしても同じコース。

 

「ボール!」

 

「どこがや?」

 

 辻は目にあらん限りの力を込めて、主審をにらみつけた。そして、マウンドに踵を返す。

「なァ、ユタカよ。今日は審判、よう見えとるで。その気で勝負せないかんワ」

 

 王に投じた2球目は、まぎれもなくボールだった。しかし、コントロールに定評のある江夏がそこにピシャリと投げれば、黙っていても審判は右手を高々とあげてくれた。それが“江夏ボール”の真骨頂だった。

 

 だが、名にし負う“江夏ボール”も王が自信を持って見逃せば、威厳の金粉がはがれ落ちてしまう。ストライクゾーンを巡る攻防、それは“王ボール”と“江夏ボール”のグレードを賭けた戦いそのものであった。

 

 カウントは2-2の平行カウント。江夏は、5球目、これでもかとばかりに王のヒザ元を突く。「ボール」。江夏も依怙地なら王も依怙地だ。ピクリともバットを動かさない。カウント2-3。たまりかねた辻は、再びマウンドに足を運んだ。

 

「ユタカ、もう意地を張るのはやめとこ。今日は、あそこのボールはとってくれへん。最後は外のカーブで終わりにしようや……」

 

 江夏は荒い息を吐きながら、しかし、クビをきっぱりと横に振った。

 

 6球目、またもやヒザ元のストレート。王の長さ、34.5インチのバットが一閃すると、打球は詰まりながらも放物線を描き、ライト藤井栄治の差し出したクラブをわずかに越えた。目を真っ赤に染めてダイヤモンドを一周する王を尻目に、精根尽き果てた江夏はヘナヘナとマウンドに崩れ落ちた。結末のコントラストは、あまりにも残酷だった。

 

 辻恭彦が回想する。

「ワシが、谷村さんに“どれだけはずれとんのや?”と聞くと、谷村さんは指で2ミリくらいのスキ間を作っとったね。谷村さん、よう見てましたワ。事実、この頃、ワシらは縫い目の幅で勝負しとった。サインを出す時、指でミリ単位のスキ間をつくるんです。するとユタカは寸分違わず、そこに投げてきよった。ワシも何百人のピッチャーのボールを受けたけども、こんなことができたのは後にも先にもユタカひとりやった」

 

 もちろん、そのスピードも半端ではなかった。22年間打席に立ち、868本のホームランを放った王貞治は「自分が対戦したピッチャーの中では江夏がナンバーワン」と言ってはばからない。いつだったか、こんな話を聞いたことがある。

 

「本当に速かったのは太る前の江夏。ボールの伸びが素晴らしい上に重みがあってバットの真芯でとらえないとホームランにならなかった。最近でいうと江川の伸びのあるボールと槙原のドーンとくるようなボールをミックスして、それをすごくしたような感じだった」

 

 江夏の肩に異常が生じたのは、69年のシーズンに入ってからだった。前年の蓄積疲労からか、チクチクと針で刺されるような痛みが断続的に続き、そのうちハシも握れなくなってしまった。江夏の肩には、炎症止めや麻酔をはじめとする無数の注射痕ができた。

 

 シーズン終了後には盲腸を患い手術、腹膜炎の併発を防ぐために1カ月間の入院生活を余儀なくされた。この入院生活で江夏は10キロも太ってしまった。

 

 69年こそ15勝10敗と江夏にとっては納得のいかない成績に終わったものの、防御率1.81はセ・リーグで最高の数字だった。翌70年は再び20勝台(21勝17敗)をマーク、71年には15勝14敗、72年23勝8敗、73年24勝13敗とエースの気概を示す。心臓発作や内臓疾患にも見舞われたが、江夏はマウンドで踏ん張り続けた。

 

「あれは72年の夏頃やと思う。ワシは田淵にかわって久しぶりに試合に出とった。その頃のアイツの心臓は最悪で、1球投げるたびに肩でハァハァと息をついとった。ワシは呼吸困難がおさまるのを待ってボールを返したもんや。で、ベンチに帰ると、医者からドクター・ストップが出てしもた。ベンチに帰るなりパタッと横たわり、氷のうで心臓を冷やすんやからね。アイツ、意地になって医者に言い返しよったよ。“久しぶりにダンプさんが出てんのに、途中でマウンドを降りるわけにはいかん!”ってな。“もうワシャ責任持てん!”いうて医者も諦めとったな」(辻恭彦)

 

 今もって語り草にされる71年のオールスターでの9者連続奪三振は、二つの意味で興味深い。一つは三振を取る技術の完成度、二つ目が短いイニングでの適性である。今にして思えば、この9者連続三振こそはリリーフ投手への転向、そして成功を示唆していたとは言えまいか。

 

 この試合、マスクを覆っていた田淵幸一が言う。

「三振は全部、真っすぐ。しかも同じパターン。最初は無意識だったけど、途中からは狙ってとったね」

 

 空前絶後の9者連続奪三振を達成したことにより、江夏はオールスターでの連続奪三振記録を、前年の分と合わせて14に伸ばした。江夏は第3戦にも登場し、結局、この記録を15にまで伸ばすことになる。

 

「ワシは狙って三振を取ることができる」

 それが当時の江夏の口ぐせだった。

 

 150キロ台のスピードボールと絶妙のコントロールに加え、バッターとの呼吸のはかり方を覚えた江夏は、ここぞという場面で面白いように三振をとることができた。打者との呼吸のはかり方を教えてくれたのは、当時、ジャイアンツにいた金田正一とドラゴンズにいた下手投げの小川健太郎だった。それについて江夏は「タイミングといっても打者の打ち気をそらしたりする、あの間を外すタイミングではなく、投球モーションに入って、いざボールを離すときのポイントの作り方だ」と語っている。彼らのピッチングをじかに観察しているうちに、江夏はそのタイミングを会得したのである。

 

 好投手の第一の条件は「ボールを長く持てる」ことである。少しでも打者の近くでボールを離すことによりボールの勢いを持続させることができ、しかも打者に球種、コースを読まれにくいというメリットも生じせしめる。ボールを長く持つためには、下半身が上半身をリードするような安定したフォームをつくり上げねばならず、それは一朝一夕にしてできるものではない。

 

 江夏が神技ともいうべき打者とのタイミングの取り方をマスターすることができたのはひとえに理想的なフォームに起因するものであり、後に、それが“江夏の21球”のドラマを生み出すことになる。

 

(後編につづく)


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