話を戻そう。心臓が悪化し、ヒジの痛みもひどくなる一方の江夏は、74年、75年ともに12勝(74年は14敗、75年は12敗)しか挙げられず、75年オフ、追われるように南海ホークスにトレードされる。

 

<この原稿は1993年9月号の『Number』に掲載されたものです>

 

 1年目、江夏は6勝12敗9セーブというさんざんな成績に終わった。

「オレはその頃、心臓の持病が限界にきていて、試合も後半に入ると、立っているのがやっとというような状態やった」と江夏は語っている。

 

 2年目も開幕当初は先発でスタートしたが、もはや9回を投げ切るだけの力は残っていなかった。5月8日の日本ハム戦での完投を最後に、江夏はリリーフ転向を命じられる。

 

 しかし、当時のリリーフといったら、先発失格の烙印を押されたものの仕事と相場は決まっていた。だから、野村がいくら「これからの野球は先発、中継ぎ、抑えの分業体制にかわっていく。オマエしかウチで抑えをやれる者はおらん!」と力説しても江夏は首をタテには振らなかった。

 

 ここで、野村は勝負に出る。

「ユタカ、球界に革命を起こしてくれんか!?」

「エッ、革命ですか?」

 

 江夏は思わず身を乗り出して野村に詰め寄った。脈ありと見た野村は、獲物のかかったつり糸をたぐり寄せるように、じわりじわりと話し始めた。

 

「なァ、ユタカよ……。今までストッパーで成功したというと、“8時半の男”と呼ばれた巨人の宮田しかおらん。しかし、その宮田も1年限りの活躍やった。これからはストッパーが先発以上に重要になってくる。オマエにその先駆者になってもらいたいんや。そして若い者が歩けるような大きな道を切り開いて欲しい」

 

 その年、江夏は22セーブポイントをマーク、リリーフ転向1年目でセーブ王に輝いた。

 

 だが、新天地のホークスも江夏にとっては安住の地ではなかった。解任された野村に殉じるかたちでチームを去り、広島に拾われることになる。監督の古葉竹識は江夏の熟達の投球術と豊富なキャリアを買ったのである。

 

 カープに来て、江夏のボールはスピードと切れを取り戻した。洗面器の中にろうを溶かし入れ、そこに腕を突っ込んでマッサージを繰り返す、いわゆるパラフィン療法がヒジの痛みを鎮め、血行障害をやわらげたのである。

 

 1年目の成績は49試合に登板し、5勝4敗12セーブ。胸を張れる成績ではなかったが、130試合全てにベンチ入りできたことが江夏には大きな自信となった。

 

 翌79年、甦った江夏は9勝5敗22セーブ、防御率2.66の成績をあげ、カープの優勝に大きく貢献する。10月6日、対タイガース戦。8回表1死ランナーなしの場面で先発の池谷からバトンを受けた江夏はタイガースの反撃を2点で食い止め、プロ生活13年目にして初めて優勝を掴んだ。

 

「オマエがおるから優勝できん! といわれ、追われたタイガースに勝っての優勝や。運命ちゅうのは皮肉なもんやと思うたよ」と、後に江夏は述懐している。

 

 前年に引き続き、江夏はこのシーズンを130試合全てにベンチ入りを果たした。その代価が自らには無縁だと思い続けてきたMVPの受賞だった。

 

 日本シリーズはパ・リーグを初めて制覇した近鉄バファローズとの間で行なわれた。近鉄が先に2連勝したが、地元に帰ってカープが3連勝、大阪に帰って近鉄が星を返し、日本シリーズは最終戦にまでもつれ込んだ。

 

 9回表、得点は4-3とカープ1点リード。しかし無死満塁。絶体絶命のピンチ。「まさかノーアウトでスクイズはない」と判断した江夏は2-2のカウントからヒザ元に曲がり落ちるボール気味のカーブで佐々木を三振に切ってとる。打者の打ち気を誘う修羅場のテクニックだった。

 

 1死満塁。打者・石渡に対し、初球はカーブから入った。打ち頃のストライクを、石渡はバットをピクリともさせずに見送った。その仕草を見て「あっ、このバッターのところでスクイズにきよるな」と、江夏は直感した。

 

 2球目、水沼のサインはカーブ。振りかぶった瞬間、石渡のバットがスッと動いた。

 

 江夏はカーブの握りのまま、外角高目にウエストボールを投げ、石渡のバットに空を切らせるという高等テクニックを披露した。バットを叩きつけて悔やしがる石渡。サードランナー藤瀬は三本間でタッチアウト。局面は一転して2死二、三塁とかわった。

 

 石渡のカウントは2ナッシング。一球、ファウルで粘られた後の4球目をヒザ元に落とすと、石渡のバットはクルリと弧を描いた。江夏は自らが招いたピンチを、自らの力で解決してみせたのである。江夏の左腕が黄金色に輝いた瞬間だった。

 

 ところで、この土壇場の場面、カーブの握りのまま、腕をトップに持っていった状態でスクイズをはずさせたというのは、江夏だからこそ可能だった芸当ではないのか。

 

 その大きな理由として、先にも少し述べたが、江夏の盤石のフォームをあげたい。江夏はほとんど顔と水平に近い位置までボールを持つことができたが、これは下半身の粘りとフォームのバランスの良さからくるものであり、だから石渡のバットの動きと水沼の立ち上がるシーンを「スローモーションを見るよう」(本人)に受け止めることができたのである。世にいう“江夏の21球”は決して安易な人間ドラマではなく、「野球は科学である」ことを証明した究極のシーンであったといえよう。

 

「江夏だからこそ、あんなことができたんですよ」

 さも当然そうに、山本哲也は言う。

 

「あれだけフォームにためがあって、ボールが長く持てるピッチャーが他にいますか。だからあのシーンを目のあたりにしても、ワシは何も不思議やとは思わんかった」

 

 辻恭彦の感想もほぼ同じだった。

「あれは2年目やったかな。サインを無視してど真ん中に平気でゆるいストレートを放ってくる。“どうしたんや、冷や冷やさせんな”というと、“いや、絶対に大丈夫や”と自信満々に言い張る。本人がいうには、ボールが長く持てるのでリリース寸前までバッターの動きが見える。バッターがどこにヤマを張っているのか全てお見通しや、というんですね。確かに江夏には2つの“タメ”があった。後ろでのタメと投げに行く時のタメ、これがスクイズはずしの真相やと思いますわ」

 

 興味深い話がある。1982年10月9日、プレーオフの初戦、西武が日本ハムの守護神、江夏を打ち崩し、8回裏、一挙6点を奪い、勝負を決めた。その8回、1死二、三塁の場面、打席に立ったのは南海時代、バッテリーを組んだこともある黒田正宏だった。

 

「得点は0-0。1点取れば、ほとんど決まりの場面ですわ。僕はベンチを出る際、広岡さんに“監督、スクイズの構えをさせて下さい”と了解をとったんです。なぜなら、2年間バッテリーを組んだ経験から、アイツが瞬時の判断でスクイズをはずせることを僕は知っとった。事実、僕がパッとスクイズの構えをすると、アイツ、きっちりはずしてきよりましたよ。だけど、こっちはハナっからフォアボールで一塁に歩く作戦。結果的にアイツの凄さを逆利用する作戦が、まんまと当たった」

 

 黒田が歩き、1死満塁としたところで、西武はとっておきの代打・大田卓司を起用。大田は期待に応えてセンター前に2点タイムリーを放ち、試合を決定付けたのだった。

 

 江夏の投球写真を見ながら、黒田は続けた。

「これだけ腕が遅れて出てくると、バッターは間がとれんわな。さらには右サイドがうまく壁になってリリース・ポイントすら見ることができない。根本さんが西武にいる頃、この江夏のフォームを左ピッチャーに叩き込もうとしたものです。江夏のフォームは、ピッチャーにとって永遠の理想でしょう」

 

 日本ハム時代、江夏に投球術のイロハを教わった大宮龍男西武ライオンズバッテリーコーチは、江夏の教えを指導の中に忠実にいかしている。左ピッチャーに対しては、江夏のセリフをそのままなぞることもあるという。

「これは工藤や杉山にもよく言いますよ。アウトコースの低目からコントロールをつくっていけとね。それに江夏さんはキャッチボールをとても大切にしていた。これを念入りにやることによってフォームと肩をつくるんです。フォームがきちんとできれば、軌道のきれいなストレートを投げることができる。軌道がきれいだと審判もストライクにとりやすいんですよ。そういうことも折を見ては若いピッチャーに話しています」

 

 大宮は一呼吸置いて、こう続けた。

「実は“21球”のシーンですが、あれって江夏さんが演出したんじゃないかと思うんです。“無意識の演出”とでも言うんでしょうか。そういうことができる人でした……」

 

 広島カープのリリーフ・エース、大野豊は、名前が同じということもあって特に目をかけられた。江夏流のストッパーの心得は、今も胸の奥に生き続けている。

「ある時、ホームランを打たれてショボンとしていると“何をしょんぼりしているんだ!”と言うんですね。結局、江夏さんが言いたかったのは恐れちゃいけないということ、同じ失敗を繰り返しちゃいけないということ。精神的にものすごく貴重なことを教わりましたね」

 

 豪放磊落、豪胆無比のイメージの付きまとう江夏だが、こと野球に対しては繊細な神経の持ち主だった。以下の証言は一般人が持つ江夏のイメージを大きく変えるかもしれない。

「宿舎の部屋が一緒になるでしょう。すると彼は寝る前に克明にスコアブックをチェックし、打たれたボールの球種やコースをノートに書き込むんです。枕元で一生懸命、研究している姿を見て、さすが超一流と呼ばれる男は違うなァ……と感心したものですよ」(衣笠祥雄)

 

「江夏は片時もボールを離さなかったね。本人は“指先の感覚が大事や”と言うとったけど、あれ、ストレートの握りのまま3本指で部屋の天井に向けてはじくんですよ。その“練習”をキャンプで毎日のようにやる。指先を慣らすことの他に、皮をこすらせることによってマメをつくっとったんだろうね。投球練習を始めてからマメをつくったんじゃ、調整が遅れてしまう。彼はそこまで計算していたんですよ」(田淵幸一)

 

 プライベートはいざ知らず、野球に賭ける情熱において、江夏豊には一点のくもりもなかった。あえて言おう。天才の遺産は球界の未来のためにも語り継ぐものであり、一時の情緒に流されて闇の彼方に消し去るべきものではない。罪は罪、野球は野球、それ以上でも以下でもない。

 

 衣笠祥雄には忘れられない会話がある。

 

 ある時、ぶしつけに訊ねた。

「オイ、ユタカ、ピッチャーにとって理想の投球とは何球で終わることや?」

 

 即座に、江夏は答えた。

「27球や。全部、初球で仕止める。これが理想やな」

 

「何でや、全部三球三振の81球じゃないのか?」

 

 ニヤリと笑い、江夏は続けた。

 

「そんなに投げたら、次の日、野球できへん。27球やったら、また次の日、野球できるやないか。ワシは毎日でも大好きな野球がしたいんや」

 

 7月15日、被告人・江夏豊に2年4月の実刑判決が下った。

 

 江夏はこれを不服として控訴。

 裁判は二審に入る――。

 

(おわり)


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