今夏、12日間に渡って熱戦が繰り広げられたロンドンパラリンピック。ひときわ高い評価を得たのは、パラリンピックでは夏冬あわせて日本として初の団体競技金メダルに輝いたゴールボール女子だ。決勝ではパワーで圧倒する強豪・中国と死闘を繰り広げ、1-0の僅差で勝利。寸分の狂いもない見事なディフェンス力で準決勝まで37得点の中国を封じた。北京では7位という成績に終わり、聖火の前でリベンジを誓ったというキャプテン小宮正江と、守備の要である浦田理恵。果たして、金メダルへの道のりはどんなものだったのか。二宮清純が2人にロングインタビューを敢行。これまであまり知られることのなかったゴールボールの世界に迫った。

 

二宮: 金メダル、おめでとうございます。

小宮: ありがとうございます。アテネで銅メダルに終わった時からずっと金メダルを目指してやってきたので、諦めずに続けてきて良かったなという気持ちでいっぱいです。

浦田: 今回は日本を出発する前から、たくさんの方に応援してもらっていました。そういう意味でも、金メダルを持って帰ってくることができて、一緒に喜び合えたというのがメダル獲得以上に嬉しかったです。

 

相手の動きが見えていた中国戦

 

二宮: 決勝の中国戦ですが、前半4分で先制したものの、そこから均衡状態が続きました。相当なプレッシャーがあったのでは?

小宮: 中国は予選から圧倒的な力で勝ち上がってきていましたし、パラリンピックの前にも中国遠征に行って練習試合をしたりしていたので、中国がどれだけ強いかということは十分に分かっていました。でも、遠征やパラリンピックの予選リーグでの情報収集で、江黒直樹ヘッドコーチや市川喬一コーチが明確に戦略を出してくれていましたから、あとはそれをコートで実践するだけだったんです。

 

二宮: 最も得点能力の高い中国のセンターの選手にボールを触らせないように、両サイドにボールを集めるようにしていたと?

浦田: はい。センターの選手からのボールは強いので、そこから速攻をされないように、両サイドにストレートかクロスのボールを入れるということ。それと、ゴールボールはボールを取ってから10秒以内に投げなければいけないというルールがありますので、少しでも時間を使わせて慌てさせるために、両サイドへのボールもディフェンスに当たってラインの外に出るように、ギリギリを狙っていました。

 

二宮: そうした戦略が当たって、前半4分に安達阿記子選手が先取点を挙げました。

浦田: 中国のセンターの選手は、自分がボールを取って速攻をしたいがために、両サイドへのボールを取ろうと、徐々に守備範囲が広がっていっていたんです。跳ね返りやすい足首は、両足を揃えずに、少し上げて挟むようにしてボールを取るのですが、中国のセンターの選手はオーバー気味にサイドに飛んでいたために、ふとした瞬間に両足が落ちて、ボールが弾かれやすいようになっていました。そこに当てにいくという戦略が見事に当たったゴールでしたね。

 

二宮: 戦略としてはわかりますが、アイシェードで全く見えない状態で、どうやって当てにいくんですか?

浦田: 普段の練習から、相手選手の身体のどの部分にボールが当たったか、音を聞き分ける"サーチ"というトレーニングをしているんです。ですから、試合の中でダブルサーチ(2人)、トリプルサーチ(3人)をしながら「脛の部分に当たっているね」「今のはセンターの手先だね」「じゃあ、あとボール1個分、中に入れようか」といったような細かいことを言い合いながら、センターの選手が最終的な判断を下して指示を出しているんです。

小宮: 一人一人がサーチをして声を出し合っていく中で、実際は見えないコートが頭の中でイメージすることで見えてくるんです。まさに中国戦は、相手の動きがはっきりと見えていました。

 

 緻密でハードなスポーツ

 

二宮: 金メダル獲得の最大の要因は、やはり鉄壁な守備にあったと思います。しゃがみこんだ状態から、ボールの中の鈴の音を聞き分けて、素早く手足を伸ばして横たわるわけですが、時にぶつかったりすることはないのでしょうか?

浦田: ずっとトレーニングをしてきているので、今ではほとんどぶつかるようなことはないですね。ゴールから縦3メートルのところまでがディフェンスが許されている「チームエリア」なのですが、日本はその3メートルのライン上にセンターの選手が守って、そこから50センチ後ろに下がったところで両サイドの選手が守るようになっているんです。ですから、センターの私が時々、サイドの選手に蹴られたりすることもあるのですが、それは自分が相手のボールの勢いに押されてしまって、守備位置が下がってしまっている証拠なんです。そういうときは、すぐに修正します。

 

二宮: ボールの重さはバスケットボールのおよそ2倍の1.25キロもあります。これを勢いをつけて投げこまれたボールを身体で受け止めるわけですから、きっとアザもたくさんつくりながら守っているんでしょうね。

浦田: 初めて世界大会に出場させてもらった時には、ろっ骨を折りました(笑)。当時はまだゴールボールを始めて2年半くらいで、トレーニングも不十分でしたから、今よりも7キロくらい痩せていたんです。相手はブラジルだったのですが、試合をしている時は、相手がどれくらい体格のいい選手かわかりませんでした。でも、試合後に挨拶のハグをしたら、両手が背中までまわらなかったんです。それで「うわぁ、大きいなぁ」と。ボール自体も、それまで国内で受けたことのないような強さで、それをまともに受けてしまいました。試合中は集中していましたので、痛さも感じなかったのですが、試合後に息をしたり、少し笑ったりするだけで、痛くて......。そしたら肋骨が折れていました。身体づくりの重要性を感じてトレーニングをやるようになったのは、それからですね。

 

二宮: 見た目以上にハードな競技なんですね。

小宮: 私も北京の時に右肩を壊してしまいました。アテネ以降、ずっと休みなしでやってきたことが原因だったのですが、それも身体づくりを見直す、いいきっかけになりました。それと、今では左右両方で投球できることが武器のひとつになっているのですが、左は右肩を壊して投げられなかった時期に覚えたんです。まさに"ケガの功名"ですね。

 

(第2回につづく)

 

小宮正江(こみや・まさえ)プロフィール>

1975年5月8日、福岡県生まれ。小学生の時に網膜色素変性症を発症し、徐々に視力の低下とともに視野が狭まる。現在は約2%程度の視野の範囲で生活をしている。小学5年から中学3年までバレーボール部に所属。九州産業大学卒業後、一般企業に就職するも、一般事務での就業が難しくなり、大好きなマッサージを活かした職業をしようと、資格を取得するために国立福岡視力障害センターに通う。同センターでゴールボールと出合い、2004年アテネパラリンピックでは銅メダルを獲得。7位に終わった08年北京での雪辱を果たし、今夏のロンドンでは主将としてチームをまとめ、団体競技初の金メダルを獲得した。障がい者スポーツ選手雇用センター「シーズアスリート」所属。(株式会社アソウ・ヒューマニーセンターより出向)

障がい者スポーツ選手雇用センター「シーズアスリート」 http://athlete.ahc-net.co.jp

 

浦田理恵(うらた・りえ)プロフィール>

1977年7月1日、熊本県生まれ。福岡県在住。20歳の時に急激に視力が衰え、徐々に視野が狭まっていった。1年半後、意を決して両親に告げるとともに、病院で網膜色素変性症と診断される。現在は左目の視力はなく、現在は約2%程度の視野の範囲で強いコントラストのみ判別可能。国立福岡視力障害センターに通っていた2004年、アテネパラリンピックで銅メダルを獲得した小宮選手の姿に憧れ、ゴールボールを始める。念願の出場となった北京パラリンピックでは7位に終わるも、今夏のロンドンでは副キャプテンとして、そしてコートではセンタープレーヤー(司令塔)として活躍し、金メダルに輝いた。障がい者スポーツ選手雇用センター「シーズアスリート」所属。(総合メディカル株式会社より出向)

障がい者スポーツ選手雇用センター「シーズアスリート」 http://athlete.ahc-net.co.jp


◎バックナンバーはこちらから