二宮: お二人はどのようにしてゴールボールと出会ったのでしょう?

小宮: 私は小学2年生の時に「網膜色素変性症」という病気が分かり、医師に「将来は失明する可能性がある」と言われたんです。それから徐々に視力がなくなり、視野も狭くなっていきました。大学生の頃はまだ、若干見えていたので、工夫をしながらなんとか授業を受けることもできたんです。でも、就職をしてどんどん病気が進行していく中で、見えないことを言い訳にしている自分がやるせなくなってしまって......。それで大好きだったマッサージを仕事にしたいと資格を取るために福岡の国立障害者リハビリセンターに通い始めました。そこで現在、日本代表のヘッドコーチである江黒直樹先生に誘われたのがきっかけでした。

 

二宮: その頃の日本のレベルは?

小宮: ゴールボールは1994年頃に日本に伝えられたと言われていて、江黒先生が九州にもってきたのが2000年。私が始めたのはその翌年なのですが、当時はまだ日本は世界で1勝もしていませんでした。私が初めて世界大会に出場したのは02年でした。国内では負け知らずでしたので、そこで初めて敗戦の悔しさを味わいました。「世界で勝ちたい」「世界一を目指したい」と思うようにはなったのは、それからです。

 

二宮: 小学5年生から中学3年生まではバレーボールをされていたということですから、もともと運動神経は良かったんでしょうね。

小宮: 江黒先生には「不器用だ」と言われます(笑)。でも、やればやっただけ結果がついてきていたので、自分の最大限の力を出し尽くせるという意味ではやりがいを感じましたし、楽しかったですね。

 

二宮: 「世界一になる」という明確な目標がありましたから、生き甲斐になっていたと?

小宮: それまでは病気が進行していくことに対して、「きっと将来は何も見えなくなるんだ......」という恐怖心があったんです。実際、センターに通うようになった頃から、急激に悪くなっていました。でも、ゴールボールをやり始めてからは、そういうことを全く考えなくなりましたね。とにかく「世界一を獲るんだ」という気持ちの方が強くて、病気のことを考える余裕がなくなったんです。

 

 スポーツ未経験から代表へ

 

二宮: 浦田さんは、04年のアテネパラリンピックで銅メダルを獲った小宮さんに憧れたのがきっかけだったと?

浦田: はい、そうです。私は20歳の頃に急激に視力が悪くなり、視野も狭くなったのですが、最初は病気のことを受け入れることができず、ずっと一人でアパートに引きこもっていました。家族に話すこともできなかったですし、病院に行く勇気もなかったんです。両親に伝えるのに1年半ほどかかりました。それからですね、いろんなことがスタートしたのは。病院に行って診断を受けて、「障害者手帳」をもらって、日常生活のための訓練学校に通って......。それで私もマッサージが好きだったので、資格を取るために小宮さんと同じセンターに通い始めました。それがちょうどアテネの時だったんです。

 

二宮: 小宮さんたちが世界と戦っている姿を、どう感じましたか?

浦田: 私はそれまでスポーツをしたことがなかったのですが、テレビでパラリンピックのゴールボールの試合が放映されていて、友人に解説してもらいながら観ていたら、「私もやってみたいな」と。私と同じ障害を持っている人が、世界の舞台で自分自身を前面に出して、思い切りプレーしている姿が、とてもかっこよかったんです。

 

二宮: 実際にやってみて、どうでしたか?

浦田: それまでは目が悪いことを理由にして、逃げたり諦めたりしていたこともあったのですが、ゴールボールでは全員がアイシェードをしますので、見えないということを言い訳にすることはできません。自分自身と正面から向き合わなければいけないんです。最後は自分がやるか、やらないか。そういう意味では、自分自身にとって最高のスポーツに出会ったなと思いました。それと、私がラッキーだったのは、世界を目指して地道に努力をしている小宮さんをはじめとした先輩たちが間近にいて、一緒に練習することができたこと。とにかく追いつきたい一心で、練習しました。

 

二宮: それまでスポーツ経験がなかった浦田さんですが、今では守備の要として欠かせない存在です。

浦田: 私は身長も大きくはないですし、スローイング力も他の選手に比べると弱い。だったら、何が自分の武器になるんだろうと考えた時に、相手からのボールをサーチして守備をするという点においては、得意でしたし好きでもありました。その部分を誰にも負けないくらい磨こうと。逆に、そこを極めるくらいでなければ、日本代表としてコートに立つことはできないと思いました。

 

強まる育成への思い

 

二宮: さまざまな苦労を乗り越え、絶え間ない努力の結果、今回のロンドンで見事に金メダルを獲得しました。最大の目標を達成したわけですが、今後についてはどのように考えているのでしょう?

小宮: ゴールボールは見た目以上にハードで体力も必要とされる競技ですが、気持ちさえあれば、年齢的にはまだまだいけるかなとは思っています。ただ、日本をさらに強くするには、後進の育成がひとつの課題となるので、自分自身が現役でプレーすることと、育成とのバランスをどうするか......。とにかく今は体と心をゆっくりと休めて、今後については改めて考えていきたいと思っています。

 

二宮: 浦田さんはいかがですか?

浦田: これまでずっと「世界一をとる」という大きな目標を掲げてやってきて、それが叶った今、人生の大きな節目にあると思っています。そして、次の節目を4年後にもっていくかどうかは、まだ答えは出ていません。後輩たちにはもっと強くなってもらいたいという気持ちもある一方で、「このポジションはそう簡単には渡せないよ。世界一を取るということは、そう甘くはないからね」という気持ちもあります。とはいえ、次のリオデジャネイロを目指すとなれば、それこそ人生をかけてやらなければいけません。金メダルを獲ったからこそ、次はもっと難しくなるはずですから、今まで通りでは絶対に勝つことはできない。これまでの何倍もの努力をしなければいけません。その覚悟をして第一線でやるのかどうか......。今回の金メダルでたくさんの方々にゴールボールを知っていただくことができましたから、普及活動にも力を入れたいという気持ちもあって、果たして自分はどのステージに身を置くべきなのか。マッサージ師という仕事も含めて、次への一歩をどこに踏み出すかを考えているところです。

 

二宮: ぜひリオでは連覇を達成してほしい、という気持ちもありますが、後進の育成も重要です。

浦田: 今回のロンドンではその点をすごく考えさせられました。これまでは自分自身のレベルを上げることを最優先にしてきましたが、チーム力を上げていくには若い選手を育てることも必要です。団体競技は一人では絶対に勝つことはできない。チーム全員がお互いの存在を認め合って、「チームのために何ができるのか」を考えることが重要です。今回はそれができたからこそ、日本は金メダルを獲ることができたのだと思います。

 

二宮: その意味でゴールボールは人間性が磨かれる競技ですね。

小宮: はい、そう思います。私もアテネ、北京に続いての3大会目でしたが、今回も1試合1試合、成長させてもらいました。キャプテンという立場でしたが、時には弱い気持ちが出てきたりしたこともありました。アスリートとしても人間としても、まだまだだなと思いましたね。

浦田: ゴールボールは、自分の足りないところを気づかせてくれるんです。私は「自分が、自分が」という傾向が強くて、すぐに自分だけのものさしだけで判断してしまうところがあります。でも、自己主張するだけではこの競技は勝つことはできません。周りをよく見たり、相手の気持ちになるなど、生きていくうえで大切なことを教えてもらいました。

 

二宮: ゴールボールは健常者もアイシェードさえすれば一緒にできますから、そういう点では理解も深まりますよね。

小宮: そうですね。よく小学校などに講習会に行って子どもたちと一緒にやったりするのですが、子どもの時に経験することで、大人になった時に相手を思いやる気持ちをゲームを通じて学び、役立ててくれればなと思います。

 

(おわり)

 

小宮正江(こみや・まさえ)プロフィール>

1975年5月8日、福岡県生まれ。小学生の時に網膜色素変性症を発症し、徐々に視力の低下とともに視野が狭まる。現在は約2%程度の視野の範囲で生活をしている。小学5年から中学3年までバレーボール部に所属。九州産業大学卒業後、一般企業に就職するも、一般事務での就業が難しくなり、大好きなマッサージを活かした職業をしようと、資格を取得するために国立福岡視力障害センターに通う。同センターでゴールボールと出合い、2004年アテネパラリンピックでは銅メダルを獲得。7位に終わった08年北京での雪辱を果たし、今夏のロンドンでは主将としてチームをまとめ、団体競技初の金メダルを獲得した。障がい者スポーツ選手雇用センター「シーズアスリート」所属。(株式会社アソウ・ヒューマニーセンターより出向)

障がい者スポーツ選手雇用センター「シーズアスリート」 http://athlete.ahc-net.co.jp

 

浦田理恵(うらた・りえ)プロフィール>

1977年7月1日、熊本県生まれ。福岡県在住。20歳の時に急激に視力が衰え、徐々に視野が狭まっていった。1年半後、意を決して両親に告げるとともに、病院で網膜色素変性症と診断される。現在は左目の視力はなく、現在は約2%程度の視野の範囲で強いコントラストのみ判別可能。国立福岡視力障害センターに通っていた2004年、アテネパラリンピックで銅メダルを獲得した小宮選手の姿に憧れ、ゴールボールを始める。念願の出場となった北京パラリンピックでは7位に終わるも、今夏のロンドンでは副キャプテンとして、そしてコートではセンタープレーヤー(司令塔)として活躍し、金メダルに輝いた。障がい者スポーツ選手雇用センター「シーズアスリート」所属。(総合メディカル株式会社より出向)

障がい者スポーツ選手雇用センター「シーズアスリート」 http://athlete.ahc-net.co.jp


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