二宮: 今年で競技生活22年目ですね。パラリンピックでのメダル獲得をはじめ、数々の素晴らしい実績を残されてきたわけですが、これまでに挫折を味わったことはありましたか?

廣道: 挫折というほどのものはなかったのですが、悔しさを味わったことはありましたね。一つは1996年のアトランタパラリンピックでの落選です。91年からレースに出場するようになったのですが、翌年にバルセロナパラリンピックがあったんです。その時、代表選手を見ながら「あの人に練習やレースでは勝っているのに......」という思いが沸々とわいてきたんです。だから、次のパラリンピックには当然、自分は行けるだろうと思っていました。

 

二宮: 94年からはボストンマラソンなど世界各国のレースを経験し、95年の大分国際車いすマラソンでは総合16位、日本人では6位に入っています。着実に力をつけてきていましたから、廣道さんも自信があったでしょうね。

廣道: はい。選考大会では大体3位以内に入ってたんです。ところが、結局アトランタは代表選考で落選してしまい、行くことができなかったんです。この時は、悔しかったですね。「絶対に4年後のシドニーでは、文句なしの1番で選ばれてやる!」と誓いました。

 

二宮: 実際、そのシドニーでパラリンピック初出場を果たし、800メートルで銀メダルを獲得しました。

廣道: 4年間、アトランタの時の悔しさがずっとありましたからね。「必ず、屈辱を晴らす!」という思いが、シドニーの銀メダルにつながったのだと思います。

 

地元で犯した大きなミス

 

二宮: 廣道さんは、2001年のエドモントン、2007年の大阪、昨年の韓国・大邱と世界陸上にも3度、公開競技として出場されていますね。特に大阪は廣道さんの地元ですから、感慨深いものがあったと思います。

廣道: 実は、その大阪での世界陸上で、もう一つ、大きな悔しさを味わったんです。その年に行なわれた健常者の日本選手権で、世界陸上の代表を決める車椅子1500メートルの予選会がエキシビジョンレースも兼ねて行なわれたのですが、僕はそこでトップ通過しました。ですから、もう自信満々に本番に臨んだんです。地元開催でしたから、友人もたくさん応援に来てくれていましたし、「よっしゃ、いいとこ見せたるわ!」と、意気込んでスタートしたんですけど、ちょっと調子に乗ってしまいまして......(笑)。あまりにも早くスパートをかけすぎてしまって、最後までスタミナがもたなかったんです。どんどん失速していって、バンバン抜かれました。挙句の果てには日本人選手2人にも抜かれて、結局6位に終わってしまいました。

 

二宮: 周りからの期待もあったでしょうから、ショックも大きかったのでは?

廣道: あれは結構、精神的にきましたね。僕、ほとんど悩んだり落ち込んだりすることはないのですが、あの時ばかりは3日間くらい、ため息ばかりついていましたよ。

 

二宮: それでも、3日間で立ち直るところがスゴイ(笑)。

廣道: いやいや、僕にとって3日間というのは相当長かったですよ。「もういっぺん、走ったら、絶対にあんなミスはせえへんのに......」って。だって、ビデオを観ても、「何であんなところで仕掛けたんやろ?」っていうくらい、普段のレースでは絶対にしないようなレースをしているんです。

 

二宮: アドレナリンが出過ぎてしまったんでしょうね。

廣道: レース中、応援の声が耳に入ってきたんですよね。そしたら、「いかなアカン!」と......(笑)。もう、自分を止められませんでした。

 

(第4回につづく)

 

廣道純(ひろみち・じゅん)プロフィール>

1973年12月21日、大阪府生まれ。高校1年の時、バイク事故で脊髄を損傷し、車椅子生活となる。17歳から車椅子レースに出場し、パラリンピックには2000年シドニー、04年アテネ、08年北京と3大会に出場。800メートルで銀メダル(シドニー)、銅メダル(アテネ)を獲得した。04年3月より日本人初のプロ車椅子ランナーとなる。06年からは「大分陸上」を主催し、日本障害者スポーツのレベルアップを図るとともに、裾野を広げている。400メートル(50秒21)、800メートル(1分36秒85)の日本記録保持者。プーマ ジャパン株式会社所属。

廣道純オフィシャルサイト http://www.jhiromichi.com/


◎バックナンバーはこちらから