王貞治を手塩にかけて育て上げた荒川博は、もうひとり球史に残る強打者を世に送り出している。大毎などで活躍した榎本喜八である。60年には3割4分4厘、66年には3割5分1厘の高打率で、2度の首位打者に輝いている。

 

 もう随分前のことだ。月刊誌の企画で、実績を残したピッチャーの証言を元に「日本一の強打者は誰だ」というレポートを書いた。一番推す声が多かったのが榎本だった。鉄腕・稲尾和久(元西鉄)は「対戦した中で最高のバッター。構えたままで見切る。不気味な集中力を感じた」と語り、こう続けた。「シュートもスライダーも簡単に打たれる。それでフォークボールを投げた。ひとりのバッターのためだけに新しいボールを覚えたのは、後にも先にも榎本さんだけ」

 

 通算187勝のサブマリン足立光宏(元阪急)は「カーブもシンカーも機械のような正確さで打ち返された」と舌を巻いていた。さらには、こんな逸話も。「外野で座禅を組む姿は宮本武蔵そのものだった」

 

 通算2314安打。最後のヒットは西鉄時代、当時東映の金田留広から放った。この年、金田は20勝をあげ、自身初の最多勝に輝いている。「引退前でもスイングスピードは一番速かった。フォーム的には懐がやや甘い。そこを突くと“待ってました”とばかりにフルスイング。打球はライトへ一直線。あんな怖い人はいなかった」。こぼれ話もある。「榎本さんは目白通りの近くに住んでいた。ゴルフに行くため、その近くを通ると、フードをかぶり、鬼気迫る形相で走っている人がいる。よく見ると榎本さん。引退後も打撃を追求していたのでしょう」

 

 球界に「天才」と呼ばれた打者は数多いるが、「鬼才」はこの人だけではないか。最近の選手で言えば、全盛期の前田智徳(元広島)が、その面影を宿していた。

 

 荒川にとって榎本は早実の後輩にあたる。合気道を打撃に取り入れた荒川は、毎日時代、その極意を榎本に伝授した。練習法のひとつとしてバットの先端をボールに見立て、前方に差し出す。振り出す前にスッと引くのだが、榎本のスイングスピードはそれを上回った。何度も衝突したという。「王に言ったことがある。“オレによくついてこれたな”と。王は言ったよ。“榎本さんという模範がありましたから”とね」。荒川道場なかりせば、昭和のプロ野球の風景は、随分寂しいものになっていたに違いない。

 

<この原稿は16年12月14日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


◎バックナンバーはこちらから