雪の中でのパレードとは、いかにも冬の北海道らしい。日本一を達成した日本ハムファイターズ栗山英樹監督が自宅を構える栗山町で行ったパレードは“手づくり感”満載だった。軽トラに長靴姿。沿道の人々は紙吹雪で“オラがまちのヒーロー”を祝福した。

 

「栗山さんは軽トラだったけど、僕らは自衛隊から借りたジープでしたよ」。そう言って42年前を懐かしんだ元道民がいる。沖縄・興南高校野球部監督の我喜屋優だ。2010年に同校を率いて甲子園春夏連覇を達成した高校球界屈指の名将である。

 

 大昭和製紙北海道の外野手だった我喜屋が苫小牧から竹浦までの国道36号線をパレードしたのは74年の夏である。この年、白老町は都市対抗出場5回目にして初めて黒獅子旗を地元に持ち帰った。野球において北海道のチームが全国制覇を果たしたのは、これが初めてだった。

 

 我喜屋の回想。「誰も優勝するなんて思っていないから、皆びっくりしたんじゃないかな。もちろんパレード用の車なんてあるわけない。そこで自衛隊からジープを借りたんです」

 

 白老町は人口2万4000人(当時)の小さなまちだ。我喜屋が興南高校卒業後に入部した大昭和製紙富士から白老に移籍したのは72年1月。降り立った千歳空港の温度計はマイナス10度以下を指していた。「ここは人の住むところじゃない」。それが北海道に対して抱いた最初の印象だったという。

 

 しかし、住めば都である。雪が邪魔なら取り除けばいい。勝てないのは寒さや雪が原因ではない。それを口にする心性にこそ敗因は潜んでいる――。文字どおり野球と格闘する日々。それを温かく見守っていたのが白老町を中心とする地元の人々だった。

 

「だからウチは会社の野球部というより地域の野球部というイメージだったね。苫小牧、社台、白老、萩野、北吉原、竹浦と線路(室蘭本線)づたいにパレードの車は走る。田舎のパレードがいいのは、身近な人ばかりで手を振っている人が誰かわかるんです。ただ人よりも牛や馬の方が多かったかな。あれは北海道ならではですよ」

 

 我喜屋と栗山は面識がある。キャスター時代の栗山が取材で興南高を訪れたことがきっかけだった。「留守電におめでとうと吹き込んでおきましたよ」。我喜屋の脳裡で白老の夏と栗山の冬が重なった。

 

<この原稿は16年12月28日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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