11 16年の春季リーグ、帝京大学は東都大学準硬式野球一部リーグで最下位に終わった。東洋大との入れ替え戦に敗れ、二部降格が決まった。帝京大のサウスポー鶴田圭祐は、2勝1敗、防御率4.58と振るわなかった。「上のレベルで野球をやりたい気持ちはありましたが、プロでやろうとは全く考えていませんでした」という鶴田の気持ちを動かしたのは、帝京大学準硬式野球部の浅野修平監督だった。

 

 浅野監督曰く、3年の秋季リーグ以降、鶴田には変化が見られたという。それは、「上のレベルで野球がしたい」とはっきり口にするようになったこと。しかし、“上”とはどこを指すものなのか。準硬式にとって、硬式野球でプレーすること自体が上のレベルを意味するとも言えるからだ。

 

 浅野監督は「彼がレベルをどこに設定しているのかが分かりませんでした。ただ、プロのスカウトたちが来てくれるようになってからは、鶴田の中で“プロ”という言葉がちらつき始めたんだと思います。本人が意識したというよりも、意識させました」と語る。

 

 鶴田はもちろん、浅野監督にとっても、プロを目指すことは初めての経験だった。これまで帝京大準硬式野球部からプロ入りした者は1人もいない。「すべてが疑問、疑問、疑問の連続だった」と話すように、手探りの状態の中、浅野監督は積極的にスカウトたちに鶴田を売り込み、グラウンドに招いた。それらのすべては鶴田自身にプロの世界を意識させるためだった。

 

 孤独との闘い

 

%ef%bc%99 そして、8月。鶴田はプロ野球を目指すことを決めた。それと同時に準硬式野球からの引退も決意した。本人はその理由をこう説明する。

「硬式球を触りながら秋のリーグ戦にも出ようと思っていたんですけど、自分は不器用なのでうまくいきませんでした」

 

 硬式と準硬式との両立はできなかった。それ以来、“孤独との闘い”が始まる。チームメイトがリーグ戦を戦う中、鶴田はひとり黙々とピッチング練習を続けていた。実戦での登板機会も当然ない。しかし、彼の気持ちが折れることはなかった。

 

 浅野監督は当時の様子をこう振り返る。「私も硬式野球を経験したことがないので、教えられない。鶴田は誰に何を聞いても答えが出ない。周りは誰も助けてくれない。チームメイトは“秋のリーグ戦を頑張るぞ”と言っている中で、ひとりだけ違うボールを握っていたんです。彼は、あの孤独の中でよく頑張ったと思います。“プロに行きたいんだ”という気持ちが伝わってきました」

 

 迎えた運命のドラフト当日。鶴田の名は、東北楽天に6番目に呼ばれた。これまでの地道な努力が結実した瞬間だった。それは、鶴田を近くで支えてきた浅野監督にとっても同じだった。「話題先行なところがあったので、嬉しいというよりも、ホッとしました」と浅野監督。一方の鶴田は「全く分からない状態で、いろいろ動いて下さった浅野監督には感謝しています」と頭を下げた。

 

 晴れてプロの世界に足を踏み入れることとなった鶴田だが、ここに辿り着くまでは茨の道を歩んできた。高校時代には、“投手失格”の烙印を押されたこともある。そんな鶴田の野球人生とは――。

 

(第3回につづく)

 

%e3%83%97%e3%83%ad%e3%83%95<鶴田圭祐(つるた・けいすけ)プロフィール>

1994年5月12日、滋賀県出身。小学3年で野球を始め、中学時には野洲ブレーブスでプレーした。10年に香川の藤井学園寒川高に入学すると、1年秋に投手から外野手に転向する。2年秋の県大会で優勝し、四国大会に出場した。高校3年間で甲子園出場は果たせなかった。13年に帝京大に入学すると、準硬式球野球部に入部。チーム事情で投手に再転向した。3年春に149キロをマークし、一躍プロスカウトの注目を浴びる。10月のNPBドラフト会議で、東北楽天に6位で指名された。身長180センチ、体重88キロ。左投左打。

 

☆プレゼント☆

 鶴田選手の直筆サインボールをプレゼント致します。ご希望の方はこちらより、本文の最初に「鶴田圭祐選手のサイン希望」と明記の上、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)、この記事や当サイトへの感想などがあれば、お書き添えの上、送信してください。応募者多数の場合は抽選とし、当選発表は発送をもってかえさせていただきます。締め切りは2017年1月31日(火)迄です。たくさんのご応募お待ちしております。

 

(文・写真/安部晴奈)

 

shikoku_kagawa


◎バックナンバーはこちらから