1950年代、阪急は「灰色の球団」と呼ばれていた。順位を見ると何度かAクラス入りしているのだが優勝は一度もなし。スター不在で人気もないとくれば、そう呼ばれたのも無理はない。

 

 そんな阪急をバラ色とまでは呼べないまでも、“いぶし銀”の球団に変えたのが、先頃、生まれ故郷の米国カンザス州ウィチタで88歳の生涯を閉じたダリル・スペンサーである。

 

 同時期、南海でプレーしていた野村克也は「日本のプロ野球はスペンサー以前とスペンサー以降に区分できる」と語っていた。それほどまでにスペンサーのプレーは衝撃的だった。

 

 四国の小さな港町で生まれ育った私は、少年時代、ご多分に漏れず巨人ファンだった。田舎には民放局が一局しかなく、野球と言えば巨人だった。皆、YGマークの帽子を被って登下校していた。それが制帽ではないと知るのは、中学生になってからである。

 

 阪急の試合を初めてテレビで見たのは1967年の日本シリーズだ。選手としてのスペンサーは下り坂にさしかかっていたが、ただならない雰囲気が画面からも伝わってきた。理知的でプレーはアグレッシブだが、グラウンドでの振る舞いは決して紳士的ではなかった。また、それが本場の匂いを漂わせていた。

 

 相棒にウインディという選手がいた。このコンビをプロレスにたとえていえばウイルバー・スナイダーとダニー・ホッジのNWAインターナショナルタッグ王者。強くて巧くて、頭が切れる。この2人を抜きにして阪急の台頭はなかった。

 

 一昨年の秋、ウィチタの自宅を訪ねた際、ウインディとのコンビについて聞いた。「オウ、ウインディ!」即座にスペンサーは反応した。彼の本名はゴーディ・ウインドホーンだがウインディで通っていた。「当時、パ・リーグで一番のピッチャーは小山正明(東京)。8回、0対0の場面で二塁にウインディがいた。ボクは敬遠されて一、二塁。ここでボクは指示したんだ。“次のバッターがゴロを打ったら、迷いなく本塁を狙え。ボクが(ゲッツーをとりにくる)ベースマンをノックアウトしてやる!”。これがまんまと図に当たって阪急は1対0で勝った。こういう野球は、まだ日本にはなかったんだ」。別れ際、スペンサーは言った。「昨日のことは忘れても50年前のことはよく覚えているんだ。いつでもウィチタに来てくれ」。最初で最後のインタビューとなった。

 

<この原稿は17年1月11日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


◎バックナンバーはこちらから