プロ野球の先発ピッチャーにとって最高の栄誉である「沢村賞」にその名を冠する故沢村栄治。今年2月1日で生誕100年を迎えた。メモリアルイヤーを祝うため、沢村の出身地である三重県伊勢市で行う巨人―北海道日本ハムのオープン戦では巨人の全選手が永久欠番「14」を着てユニホームでプレーすることが決まった。沢村は実働5年で3度のノーヒットノーランを達成した伝説の大投手だ。戦争のため、27歳の若さでこの世を去った沢村の秘話を、娘・美緒さんの証言を基にした2011年の原稿で振り返ろう。

 

<この原稿は2011年7月号『文藝春秋』に掲載されたものです>

 

 ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグに加えジミー・フォックスやレフティ・ゴーメッツらのサインもある。昭和9年(1934年)11月から12月にかけて「米国大野球団」と「全日本」が対戦した「日米大野球戦」を記念して主催の読売新聞社が作成した『日米野球戦記念』と題するアルバムは関係者のみに配布された限定版である。中に収められている参加メンバーのサインは全て直筆であり、写真は紙焼きしたものが丁寧に貼られてある。表紙は皮張りだ。

 

 時間をかけて目を通していくうちに、あることに気が付いた。「全日本」のエースである沢村栄治のサインだけが、どこを探しても見当たらないのだ。というより、不自然に消された形跡がある。

 

「母が消したんです」

 

 意味あり気な笑みを浮かべて、このアルバムを所持する細身の女性は言った。

 

 酒井美緒さん、66歳。プロ野球で最高の先発ピッチャーに贈られる「沢村賞」にその名をとどめる、伝説の大投手、沢村栄治のひとり娘である。美緒さんの母親で沢村の妻・優さんも存命だが、92歳と高齢にして、病気がちとあって、今回、直接話を伺うことはできなかった。

 

 この『日米野球戦記念』は、美緒さんにとっては、いわば父の形見である。生後4カ月で戦死した父親についての記憶は当然のことながら全くない。

「これは、おそらくマニキュアの除光液で消したものと思われます。母はとてもオシャレな人ですから……」

 

――それにしてもなぜ、このようなことを?

「どうやら夫婦間にちょっとしたいさかいがあったようですね。そういえば母はベーブ・ルースとルー・ゲーリッグと父の3人が写った写真も破いてしまっているんですよ」

 

 クスクスと笑い、ポツリとつぶやいた。

「彼女はプライドの高い人ですから……」

 

スクールボーイの快投

 

 沢村栄治を語る上で欠かすことができないのが同年11月20日、静岡・草薙球場で行なわれた「日米大野球戦」の第9戦である。「日米大野球戦」と銘打たれてはいたものの双方の実力差は歴然で、ここまでの戦績は全日本の0勝7敗(第5戦は日米混合チームで実施)。全日本の1試合あたりの平均失点は2ケタに達し、この2日前に行なわれた第8戦(横浜)では21点も奪われていた。

 

 頼みの綱である京都商業高校(現・京都学園高校)5年の沢村の出来も散々だった。初先発した第4戦(神宮球場)では3本のホームランを含む12安打を浴びて10失点。リリーフ登板した第6戦(富山・神通球場)でもメッタ打ちにあっていた。

 

 それでも草薙球場に、約2万人もの大観衆が詰めかけたのはルースをはじめとする全米オールスター軍団の人気ゆえであった。

 

 試合開始は午後2時。この日、沢村は初回から飛ばしに飛ばした。1回裏1死から4連続三振。その中には3番ルース、4番ゲーリッグからのものも含まれていた。

 

 沢村は3回裏にも2つの三振を奪った。ホップする自慢の快速球と“懸河のドロップ”でメジャーリーグの並み居るスラッガーたちをきりきり舞いさせた。

 

 この試合に4番・ショートとして出場した苅田久徳から生前、私はこんな話を聞いたことがある。

 

「当時の日本のピッチャーは速球派といっても、今のスピードガンで測れば、せいぜい120キロ程度。ところがひとり沢村だけはゆうに150キロを超えていた。球質は軽いほうでしたが、胸元のストレートはホップするように見えました」

 

 沢村もよかったが、相手の先発投手、アール・ホワイトヒルも負けてはいなかった。日本のバッターは手も足も出ない。両エースの好投でゼロ行進が続いた。

 

 均衡が破れたのは7回。先頭打者のルースをピッチャーゴロに仕留めた沢村は、この年、メジャーリーグで3冠王を達成したゲーリッグを打席に迎えた。

 

 ノーボール1ストライクからの2球目、珍しくカーブが高めに浮いた。この失投をゲーリッグは見逃さなかった。打球は瞬く間にライトスタンドに消えた。

 

 結局、このホームランが決勝点となり、日本は0-1で敗れた。大金星こそ逃したものの「スクールボーイ」の好投はオールスター軍団を驚かせた。

 

 この試合の後、全米チームの招致に尽力した読売新聞社運動部嘱託の鈴木惣太郎はコニー・マック監督に呼び出され「なんとかしてサワムラをアメリカに連れて帰れないものか」と打診を受けている。早速、この話を本人に伝えたところ沢村は「行ってはみたいが怖い」と言って即座に拒否したという。

 

 この年の12月、「全日本」を母体にプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(現在の読売ジャイアンツ)が誕生する。慶応大学に進学する予定だった沢村は月給120円、支度金300円の契約で職業野球に身を投じた。

 

 晴れてプロ野球選手となった沢村の初仕事は米国遠征だった。当時、まだプロのリーグはなく、ために「大日本東京野球倶楽部」は「東京ジャイアンツ」と名乗って武者修行に出た。

 

 翌年2月から7月までの約半年間、東京ジャイアンツは今でいうマイナーリーガーたちを相手に128日間で109試合を行ない、75勝33敗1分という好成績を残した。ちなみに沢村の成績は21勝8敗であった。

 

 遠征中、セントルイス・カージナルスのスカウトが沢村を騙して契約書にサインさせ、鈴木に引き渡しを求めるという事件が起きた。事の真相はスカウトをファンだと勘違いした沢村が、作為的に差し出された紙にうっかりサインしてしまったことにあった。

 

 巨人を中心とする職業野球連盟が産声をあげるのは翌昭和11年だ。<東京巨人軍は、職業野球の先駆者でもあったが、実際上に連盟の盟主でもあった>。鈴木は自著『不滅の大投手・沢村栄治』(恒文社)でそう述べている。参加したのは巨人、大阪タイガース、名古屋、阪急、大東京、名古屋金鯱、東京セネタースの7球団であった。

 

 暮れも押し迫った12月、巨人軍と大阪タイガースの間で3戦制の「王座決定戦」が行なわれた。当時は各地で開かれた大会ごとに優勝チームが勝ち点を得て、その点数の合計で総合優勝を決める仕組みだった。結果、巨人とタイガースが勝ち点で並び、日本一をかけた決定戦を実施した。戦いの舞台の名をとって、これは「洲崎決戦」とも呼ばれた。

 

 この3連戦、巨人軍は2勝1敗でタイガースを破り、職業野球の初王座に輝いた。初戦で完投勝利をおさめた沢村は第3戦でも5回から先発の前川八郎をリリーフし、4対2の勝利に貢献した。読売新聞(昭和11年12月12日付)には<沢村の快投は最後までタ軍の進軍を許さず>との記述がある。

 

 鈴木の著作によれば、この「洲崎決戦」を優さんは客席から観戦している。

 

「母が学生の頃、“野球でも観にいくか?”っておじに連れられ、初めて野球を観たのが洲崎球場だとは聞いております。ちょうど父(沢村)が投げていて“あぁ、こういうもの(スポーツ)があるんだ”と思ったそうです」

 

 美緒さんによれば、そこで優さんは沢村に一目惚れする。その端正なマスクにではなくボールに惚れたというのだからおもしろい。

 

「彼女が言うには、それはそれはとても素晴らしい球だったと言うんです。バックネット裏というんですか、そこから見ているとキャッチャーの近くでグンとボールが伸びてきたというんです。“それぐらい魅力のある球だったのよ”と言っていました。

 

 それから今でいう“追っかけ”みたいになったんじゃないでしょうか。ボールを追いかけているうちに父のファンになっていったと。だから、どの球場でも、観戦する時は必ず父のボールが一番いい角度で見える席を選んだそうです」

 

ほのぼのしたデート

 

 ところで『不滅の大投手・沢村栄治』に優さんはこう紹介されている。

 

<良子さんは大阪に本店を持ち、東京にも上海にも、ニューヨークにも支店を持つS貿易会社を主宰する米井家の一粒だねで、東京の女子大学の家政科に籍をおいていた。>

 

 正確に記せば「良子さん」は「優さん」、「米井家」は「酒井家」、S貿易会社のSは「酒六」、大阪の「本店」は「出張所」、「東京の女子大学」は「日本女子大学」である。いずれにしても優さんが良家の子女であったことは間違いない。

 

 ちなみに酒六という会社は優さんの祖父、酒井六十郎が明治21年(1888年)、生まれ故郷である愛媛県八幡浜市に個人創業した織布業を起源とする。他に鉄工、印刷、酒造などを手広く営んでいた。社の事業概要によれば昭和25年(1950年)には昭和天皇が当時、8つもあった織布工場のひとつ八幡浜工場を視察に訪れている。なお六十郎の長男・宗太郎、つまり優さんの父は初代・八幡浜市長も務めた。

 

 いくら沢村が巨人軍のエースとはいえ、当時、職業野球は世間からは好奇の目で見られていた。二人は愛情を深めていったものの家柄が違い過ぎた。

 

 優さんは二人姉妹の次女だった。7つ違いの姉の睦子さんは、内務省の警察官僚で後に防衛庁長官となる増原惠吉に嫁いだ。宗太郎が昭和10年に46歳の若さで亡くなり、後継者と目された増原だが、本人にはその気がなかった。ならばと、もうひとりの婿に後継を期待するのが当然である。ところが次女が選んだ相手は、よりによって職業野球選手であった……。

 

 そのあたりの事情について、美緒さんはこう語る。

「知り合ったのは母が18歳、父が20歳の時だったようです。デートといっても別に映画を観にいくわけでも、お茶を飲みにいくわけでもない。なんか、ただ歩くだけのほのぼのしたものだったみたいですよ。

 

 伊勢の宇治山田出身の父の家系は、ご存知のようにそれ程裕福ではなく、兄弟も多かった。アメリカ遠征の時、父には読売から遠征費が出たのですが、沢村の父(賢二)は“後で見送りにいくから”といいながら見送りにも来ず、一銭も渡してくれなかったそうです。

 

 結婚については、おじ(増原)が警察官僚でしょう。うちも商売人ではありましたけど、それなり(の家柄)だったものですから、だいぶ反対にあったようです。非難されたとも聞きました。最後は総スカンというか村八分的な感じだったようです。

 

 一度、母に“お嫁に行って後悔しなかった?”と聞いたら“さぁ、どうでしょうね”ですって(笑)。でも直筆のサインを消すくらいだから、ケンカとか、まぁいろいろあったんでしょうね(笑)」

 

 27歳の若さで還らぬ人となったため、野球人生そのものが伝説として崇められている沢村だが、全盛期は決して長くはなかった。先述した全米オールスターチーム相手に快投を演じたのが昭和9年11月、つまり沢村が17歳の時。投手成績を見る限り、この頃から昭和12年(1937年)までがピークだと思われる。

 

 昭和12年春のシーズン、沢村は24勝4敗、防御率0.81の成績で巨人の優勝に貢献し、初の最優秀選手にも選ばれたが、12年秋は9勝6敗、防御率2.38という不本意な成績に終わり、タイガースに優勝を奪われている。

 

 以降の沢村の成績は昭和15年、7勝1敗、防御率2.59。昭和16年、9勝5敗、2.05。最後のシーズンとなる昭和18年は0勝3敗、防御率10.64。晩年は腕が下がってしまい、サイドスローのようだったとの証言もある。

 

(後編へつづく)


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