<ご無沙汰しております。お元気ですか? ご心配おかけしました。近々、またお会いしましょう>

 

 

 久しぶりのメールの主はサッカーJ2FC岐阜の元監督ラモス瑠偉だった。

 

 昨年12月、脳梗塞と診断され、緊急入院していたラモスが晴れて退院した。

「脳梗塞と聞いてビビった。これで逝ってしまうんじゃないかって。再発があると聞いて逝ってしまうんじゃないかって。珍しくマイナスのことしか考えなかった……」

 

 Jリーグ創設時、ヴェルディ川崎の「10番」として誰よりも輝いていたラモスも、もう60歳だ。昔なら“おじいちゃん”である。

 

 そう言えば、ラモスのライバルだった横浜マリノスの「10番」木村和司も15年1月に脳梗塞で倒れ、今もリハビリを続けている。

 

「まさか、こんなことまで仲間になるとは……」

 

 苦笑を浮かべて58歳の木村は語っていた。同病相憐れむ、の構図だ。

 

 JSL時代から日本のサッカーを支えてきた2人には“同志”の意識が強い。

 

 1993年5月15日。東京・国立競技場でのJリーグ開幕戦はヴェルディ川崎対横浜マリノス。2対1でマリノスが逆転勝ちを収めたが、初ゴールを決めたのはオランダからやってきたヴェルディの新外国人のヘニー・マイヤーだった。

 

「できたら初ゴールはカズシに決めて欲しかった」

 いつだったか、ラモスはそう語っていた。

 

「冗談じゃないよ!」

 直情径行型のラモスの口ぐせが、これだ。

 

 ラモスらしい引退直後のエピソードをひとつ紹介しよう。外国人中心のチームとの草サッカーで“事件”は起きた。

 

 敵チームの選手がラモスから“また抜き”を狙ったのだ。元日本代表の司令塔相手に“道場破り”を試みようとしたのだ。

 

 例えるなら素人からケンカを売られたようなものか。ラモスは烈火のごとく怒ったのは言うまでもあるまい。

 

「もう思いっきり削りに行ったよ。倒れても知らん顔して“来い、来い!”ってね」

 

 たかが草サッカー、しかしラモスにすれば、されど草サッカーなのだ。

「サッカーのことになると、オレは草サッカーでも熱くなっちゃう。本当にサッカーしかないんだよ、オレには……」

 

 代表のこと、Jリーグのこと。ラモスには、まだまだ吠え続けてもらいたい。

 

 地獄の淵を覗いたのだ。何も恐いものはあるまい。

 

<この原稿は『週刊漫画ゴラク』2017年4月14日号に掲載されたものです>

 


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