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(写真:『PRIDE1』出場に向けてトレーニングする黒澤 Photo by 山口比佐夫)

「何か狭く感じますねぇ。あの時は、もの凄く広い会場に思えたのに」

「そうですね。黒澤さんが初めて(極真カラテ)の世界大会に出た時は、まだ東京ドームもなかったですから」

 黒澤浩樹と、そんな話をしたことを思い出す。

 

 もう20年近く前のことである。1998年6月24日、場所は日本武道館。私たちは『PRIDE3』の解説者としてリングサイドに設けられた放送席に座っていた。

 

「黒澤さんが亡くなった」

 友人のカメラマンから電話で、そう聞かされた時、カラダが硬直した。そして、言葉を発することができなかった。

 

 黒澤浩樹は、私よりも4年4カ月ほど早く生まれている。そして彼の格闘技人生と、私の記者としての取材歴は重なり密接な関係を築くようになった。特にPRIDEへの参戦を決め、KRSの代表幹事を務めるようなって以降は、頻繁に会うようになる。極真会館を退会し、黒澤道場を設立、その後に出版した『極真魂』(黒澤浩樹著・双葉社)は私が構成を担当した。

 その際にも長い時間、話を聞かせてもらった。

 

 中学生の時に渋谷の映画館で『史上最強の空手』を観て極真に憑りつかれた時のこと、本部道場に通う山手線の中で、いつも緊張しガタガタと震えていたこと、第18回大会でV候補と目されながら2回戦で豊田宜邦の跳びヒザ蹴りを食らい一本負けを喫した時のこと、第21回大会後の謎の謹慎処分のこと、大山倍達総裁との思い出、PRIDE参戦直前の苦悩、両親への想い、指導者としてやっていきたいことなどなど……。

 

 黒澤浩樹という格闘家に私は惹かれ、その後も幾度も、格闘技界の理想形について語り合った。数多くの武勇伝を持つコワモテなイメージが強い彼だが、実はナイーブで常に相手の気持ちを思いやる心優しい男だった。

 

 輝きを放った80年代

 

 日本において格闘技人気が高まりを見せたのは、93年4月に『K-1グランプリ』が開催され、同年11月に『UFC』がスタートして以降だろう。

 だから、一般のファンにとって黒澤は、PRIDEファイターであり、K-1ファイターなのかもしれない。でも彼の絶頂期は、そこにはなかった。

 

 黒澤が輝きを放ったのは、80年代の熱き極真カラテの舞台である。

 極真カラテ本部直轄・座間道場から城西支部に移り出場した第16回極真全日本大会(84年)。そこで強烈な下段回し蹴りを武器に初出場初優勝の快挙を達成した。決勝では竹山晴友(のちのキックボクシング日本ウェルター級王者)をローキックで圧倒。あの時の黒澤の野性味溢れ、また自信に満ちた目が、私は忘れられない。

 

「とんでもない男が出てきた」と東京体育館の客席で驚いたものだ。

 その後も黒澤は、数多くの好勝負を残したが、もっともインパクトの強かった闘いは、あの第16回全日本大会だったと思う。

 

“ニホンオオカミ”ではない。

“格闘マシーン”としての黒澤の勇姿は、80年代に格闘ドラマを熱く見守ったファンの心に、これからも生き続ける。

 

近藤隆夫(こんどう・たかお)

1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等のスポーツ番組でもコメンテーターとして活躍中。著書には『グレイシー一族の真実 ~すべては敬愛するエリオのために~』(文春文庫PLUS)『情熱のサイドスロー ~小林繁物語~』(竹書房)『キミはもっと速く走れる!』『ジャッキー・ロビンソン ~人種差別をのりこえたメジャーリーガー~』『キミも速く走れる!―ヒミツの特訓』(いずれも汐文社)ほか多数。最新刊は『忘れ難きボクシング名勝負100 昭和編』(日刊スポーツグラフ)。

連絡先=SLAM JAM(03-3912-8857)


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