<この原稿は1986年5月号「ザ・ヒットマガジン」を一部再構成したものです>

 

‘82年暮れ、高校を1年で中退したひとりの少年が、プロサッカー選手を夢見て、本場ブラジルへ旅立った。少年の名前は三浦知良。サッカーの技術はもとより、言葉、生活習慣まで、不安だらけの異国での挑戦。しかし、少年は一度として夢を疑わなかった。オレはいつの日かマラドーナのようになるんだ、と……。

 

 そして、ついに‘86年、2月あのペレの出身チーム・名門サントスFCとプロ契約を交わした。夢にまでみたプロサッカー選手。「早いものですね。ボクももうハタチですよ」。三浦知良は、あわただしく過ぎた4年間を懐かしむかのように、ゆっくりと語り始めた。

 

「ブラジルって、はっきりいって好きじゃないんですよね。ブラジルで聞いてた音楽も今聞くのイヤです。思い出しちゃうんですよね。ブラジルの辛い思い出を……。

 

 アパートにひとりでいたりすると、考えるのは日本のことばかりです。ブラジルって街自体が貧しいでしょう。覇気みたいなものもないし。いくら自分がお金持っていても、気持ちが貧しくなってくるんです。

 

 逆に日本にいると、お金持ってなくても気持ちだけは豊かになりますね。1カ月だけの帰国(正月の高校サッカー選手権解説のため帰国)だから、日本のことが良く見えるのかもしれないけど……でも、やっぱり気持ちだけはリッチでいたいですからね。

 

 睡眠も日本だと安心してとれるんですけど、向こう(ブラジル)じゃ眠れないときがよくありますね。やっぱり“仕事の場”って意識があるでしょう。特にブラジルに行った時なんか、ほとんど眠れなかった。それで、練習の前の日なんか、無理やり寝たんです。あれこれ考え始めると悪くなるばかりですからね。ま、今は少しは慣れましたけどね。

 

 おかげで本をよく読むようになりましたよ。北方謙三とか、赤川次郎とかね。昔はひと月に1冊くらいだったのが、今は5冊は読みます。向こうはバスの移動で25時間くらいかかることがあるんです。25時間も眠れないでしょう。そんな時は、本を読むことにしていますね。

 

 もちろん、話もしますよ。マッサージの人とかの話は勉強になりますね。そういえば、ペレはやっぱり凄かったらしいですよ。何でも、試合の3日前から調整したそうです。計量もずっと行なっていて、気がついたことは技術のこと以外でも全部ノートに書きとめていたらしい。試合の前日になると、点の取り方を頭の中でシミュレーションして、その通り点を取る。その話を聞いて、ボクも気がついたことをノートに書くようにしているんですけど……まだまだですね、ボクは。

 

 それにしても、海外で生活することの恐さは随分と経験しましたよ。ボクは強盗とかにあったことはないんですが、恐ろしい場面には何度か遭遇しました。例えばポーチとか持って歩いている人間がいるでしょう。すると、3人組とかが後ろからつけてきて体当たりするんです。そこに路地の方から仲間が現れてポーチを拾って逃げる。おそらく、後で山分けするんでしょうね。だからボクは、黒人の3人組とかに出会うとわざと空手のマネなんかするんですよ。向こうの人間は空手を恐れてますから。

 

 だからというわけでもないんですが、ボクみたいに15、16でブラジルに行きたいって子には、まず、“やめろ”っていいますね。先日も何人かそういう子に会いましたけど、やっぱり賛成はしませんでしたね。“オマエ、サッカーうまいのか”って聞くと“ウン”という。しかし、彼らにとって心配なのは技術やシステムなどサッカーのことばかりで、生活面でのことではないんです。しかし、ボクの経験からいうと、むしろ心配なのはサッカー以外の問題なんですね。

 

 だってそうでしょう。サッカーをやりに行くんだから、サッカーでの苦労は何とも思わないんです。プレッシャーもそんなに苦にはならない。しかし、生活の面では日本とは全く違うから悩んじゃう。私生活で悩み始めるとサッカーもダメになってくるんです。ま、そういっても、来たい人間は止めても来ますよ。それでいいんじゃないですか。自分がそうでしたからね(笑)」

 

 サッカー王国・静岡で生まれた三浦知良は、3歳の頃からボールに親しんだ。オジは少年FCチームの監督、そして兄・泰年は、現在読売クラブに籍を置くサッカープレーヤーという恵まれた環境。「ブラジル行きは小さい頃から当然のように思っていた」と彼はいう。

 

「本格的にサッカーをやり始めたのは、静岡市内にある城内FCというチームに入ってからですね。ちょうどウチの父の弟が監督をやっていた。その人がブラジル的なサッカーを教えてくれて、そしてもうひとりの父の弟からもブラジルのサッカーの凄さを聞かされていたんで、ブラジルへ行くことは当然のように思っていました。

 

 行く前、いろんな人から『凄いですねぇ。ブラジルへ行くんですか?』なんていわれたけど、自分は全然凄いとか思わなかった。“自分はただブラジルへ行ってサッカーをやればいい”そんなふうに思っていました。今、考えると恐ろしいですけどね。

 

 子供の頃ですか、悪かったですよ。小学校の6年の頃は“危ない子”っていわれていました。よくいるでしょう。“あの子だけは遊ぶな”みたいな。そんなタイプの子供でしたね。もちろん、勉強は全部1と2ばかり。いいのは体育だけで、母親から“アンタらしい”ってよくいわれましたよ。

 

 そんな母も、マラソン大会とかだけは目の色が違うんです。“1位だったら2千円、2位だったら千円あげるから頑張りなさい”とかね。おかしな母親でしょう(笑)。ボクも2千円欲しいから必死で頑張りましたよ。でも、中学の2、3年になるとサッカーばっかりで、悪いこともしなくなりましたね。

 

 でも、学校へマジメに行ったことはないですね。中学のとき、大抵起きるのは昼の2時か3時頃。先生から電話かかってくるんです。すると、“寝てるから起こすな”とかいったりね。諦めて先生も笑っていたみたいですけどね(笑)。とにかく、遅刻して早退するようなヒドい中学生でした。

 

 でも、サッカーはマジメにやりましたよ。県選抜とかには入れなかったけど、ドリブルとかは誰にも負けないと思っていた。公園にゴミ箱を置いてドリブルの練習をしたりね。その頃からばく然と“将来はサッカーでメシが食えるようになりたいな”とは思っていました。

 

 逆にアニキは絵に書いたようなマジメな人間でね。ボクとは正反対の性格をしているんですよ。

 

 そのアニキとこの前、一緒に練習をしたんですけど、やっぱり最高でしたね。練習して一緒にやりたいって気持ちは一層強くなりました。アニキはこういってくれるんですよ。“オレのチームを気にすることなんかない。オマエが思うようにやれ”って。すごくうれしかったですね。アニキは、どういうところにボールを出せばボクがやりやすいかってことを、一番知ってくれてるんですよ。

 

 彼がいれば、ボクは伸びるだろうし、また彼も伸びるかもしれない。ボクはひとりでやるタイプじゃないですからね。マラドーナだって、ワールドユースのときディアスという名アシストがいたでしょう。ボクにもそういう人間が必要だと思うんです。精神的にもアニキの方が強いですからね。大きい試合になればなるほど力を発揮する。とにかく、一緒にやりたいって気持ちは非常に強いですね」

 

(後編へ続く)


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