決して褒められた話ではないが、乱闘には“プロ野球の華”的な要素もある。真剣勝負の証とも言える。

 

 

 今季初の乱闘による退場者は東京ヤクルトのウラディミール・バレンティンと阪神の矢野燿大コーチ。喧嘩両成敗というわけだ。

 

 4月4日、京セラドームでのゲーム。事の発端は5回、阪神の先発・藤浪晋太郎がヤクルトの6番・畠山和洋に与えた死球だ。左肩をかすめ左顔面をとらえた。

 

 怒り心頭の畠山がマウンドに詰め寄り、小競り合いが始まった。バレンティンの勢いに押された矢野が転倒。立ち上がるや、お返しの飛びヒザ蹴りを見舞った。

 

 メジャーリーグでは、乱闘に参加しなかった者は、まず仲間として認められない。ある意味、チームへの忠誠心が試される場でもある。

 

 ぶつけたら、ぶつけ返される。殴ったら殴り返される。暴力の“抑止力”によって平等性が担保されている。

 

 かつて、乱闘が始まるや否や、「イッツショータイム!」と叫んだアナウンサーがいた。もちろん、スタンドの観客は全員、総立ちだった。

 

 日本において、あろうことか乱闘の写真を興行用のポスターに使用した球団があった。埼玉西武の前身、太平洋クラブ・ライオンズである。

 

 1974年4月27日、川崎球場でのロッテ戦で“事件”は起きた。ホームでのクロスプレーが、両軍のバトルにまで発展したのだ。

 

 ロッテの監督・金田正一が太平洋のキャッチャー宮寺勝利を蹴り上げる。その金田にサードからドン・ビュフォードが突進し、弾丸のようなタックルを見舞ったのだ。

 

 太平洋が本拠地で興行用のポスターに使用したのが、この写真である。

 

 これには伏線があった。“黒い霧事件”で球団経営から撤退した西鉄の流れを汲む太平洋は運営資金に窮していた。

 

 何か興行の目玉はないか。わらにもすがる思いで飛びついたのが、この乱闘劇だった。

 

 プロデューサー役を買って出た球団代表・坂井保之の話。

「日本人って遺恨劇が大好き。たとえば忠臣蔵。なぜ、あんな昔の話を今も日本人は愛しているのか。それは遺恨を晴らすからでしょう」

 

「おかげで平和台の3連戦は、どの試合も全て満員。赤字球団にとって、どれだけ現金収入がありがたかったか……」

 

 だが、坂井の機転の甲斐もなくライオンズは79年、西武に身売りされた。球団は所沢に移転する。今では乱闘ポスターの存在を知る者も、ほとんどいなくなった。昭和は遠くなりにけり、である。

 

<この原稿は『漫画ゴラク』2017年5月5日号に掲載された原稿です>

 


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