1997年、安永聡太郞は横浜マリノスからレンタル移籍でスペインに渡っている。清水商業高校から横浜マリノスに入る際、国外留学の約束をとりつけていたのだ。
安永が加入することになったのは、カタルーニャ州リェイダを本拠地にする、ウニオ・エスポルティーバ・リェイダ・S・A・Dというクラブだった。
1947年にウニオン・デポルティーバ・リェイダというクラブが設立。78年に他のクラブと合併し、ウニオ・エスポルティーバ・リェイダとなった。そして92年にウニオ・エスポルティーバ・リェイダ・S・A・D(以下、リェイダ)と改称している。
リェイダはカタルーニャ州リェイダ県の県都。バルセロナから陸路で170キロ弱の場所にある、人口約14万人の小さな街である。
リェイダはその静かな街に似合った、控えめなクラブと言ってもいい。2部リーグが定位置で、50-51年シーズン、そして93-94年シーズンの2度だけ、1部リーグに昇格したことがある。
スペインサッカーは格闘技
リェイダで安永が戸惑ったのは紅白戦での当たりの激しさだった。
「もう、ガシャガシャですね。日本だとガツガツこない場所で、ドーンと(当たって)来る。ぼくたちの感覚では味方同士で削るのはやめようという感じなんですけど、行かないと(同じチームの選手から)怒られる。行っても謝る選手もいない。逆に、(ボールを受けて)最初のコントロールで動かしていると、向こうは凄い勢いで(滑り込んで)来るから、ぱっと外す。そういうのを覚えていきましたね」
フィジカルコンタクトの強さの象徴の1つが、レガース(すね当て)の大きさだった。安永は試合前、日本で使っていたレガースをつけようとすると、チームメイトから「なんだ、これは?」と笑われたという。
自分の脛に合わせた大型のレガースを特注するのが普通なのだと教えられた。
「足首の周りは特に守っておかないと危ない。スパイクも頑丈なのが人気で、裏側にアルミ製のほどよく削れた(ポイント)ものを使っていましたね」
スペイン1部リーグでもホーム、アウェーに関係なく常に華麗なパス回しをするのは限られたクラブである。それ以外のチームは激しく体をぶつける。スペインのフットボールは格闘技でもあると安永は考えるようになった。
リェイダは前年の96-97シーズン、リェイダは2部22クラブ中11位という成績だった。このシーズンから安永を含め、多くの新しい選手が加入しており、3度目の1部リーグ昇格を目指していた。
チームは、4-2-3-1というシステムを採用していた。
「4バックにダブルボランチ、その前に3枚の中盤がいて、フォワード1人。ディフェンスはそれほどしなくて良くて、好き勝手できた」
リェイダは開幕2戦、1部から降格してきたセビージャ、そしてアトレチコ・マドリーBに連敗したものの、10月ごろから調子を上げていく。
そして、コパ・デル・レイ(国王杯)を迎えた。
これは日本の天皇杯と同じように1部、2部リーグというカテゴリーを超えて、国内のクラブがトーナメントで対戦する大会である。
リェイダは予選でアンドラCFを下し、第1ラウンドに進んだ。そこで1部リーグ所属のレアル・サラゴサと対戦することになった。
10月8日、本拠地で行われた第1戦、リェイダは格上のサラゴサをあと一歩まで追い詰めた。終了間際、獲得したペナルティーキックをアントニオ・カルデロンが外してしまい、1対1の引き分けに終わったのだ。
カルデロンは昨年まで1部リーグでプレーしていた選手だった。所属していたラーヨ・バジェカーノが2部に降格、放出されたのだ。
安永は後半13分から交替出場している。
10月29日に行われた第2戦でリェイダは1対2と破れ、第2ラウンドに進出することはできなかった。この試合で安永は先発フル出場。サラゴサには、後にはバレンシア、インテルミラノでプレーするアルゼンチン代表のキリ・ゴンサレス、パラグアイ代表のディフェンダー、ロベルト“トーロ”アクーニャがいた。
このサラゴサ戦で安永は自分がスペインでやっていけるという自信がついたという。そして、1部リーグでプレーしてみたいと強く思うようになった。
安永のレンタル移籍期間は前半戦のみ、半年の予定だった。それがクラブの強い要望でさらに半年延長されることになった。
フィーゴから授与された盾
安永の記憶によると、後半戦が再開する前のある日、クラブの人間から呼ばれたという。
「いきなりバルセロナに行くから背広着て来いって。バルセロナまで飯を食いに行くのかな。それなのに背広を着なきゃいけないのは面倒だなと思っていた。スペインに行ってしばらくはスペイン語を習っていたんですけれど、なんとなく分かるようになってからは止めていた。あの頃は聞いて話すというのが出来なかったから、まあついて行けばいいやと。背広なんか持って来ていませんからね。それで仕方がなく、背広を買ってバルセロナに向かった」
クラブの人間の後に着いていくとカメラを持った報道陣が集まっているのが見えた。
「(会場へ向かう直前に)表彰式だとは聞いていたんですが、盛大なパーティーだとは思わなかった。そして名前を呼ばれ、訳が分からないまま壇上に登ったんです」
安永の目の前に立っていたのは、当時、FCバルセロナに所属していたポルトガル代表のルイス・フィーゴだった。
「でかい」「(顔が)濃い」と安永は心の中で思わず叫んだ。
「フィーゴが賞のプレゼンターだったんですよ。フィーゴから盾みたいなのとシャンパンを貰った。それで何か一言ってマイクを向けられたんですけれど、“あー、あー”なんて
していたら、スペイン語が分からないと思われたみたいで、“もういい”って。未だにあれ、何の表彰だったのか分からない。今となってみれば、フィーゴと写真を撮っておけば良かったなぁ、なんて思いますけど」
安永は、ハハハと声を上げて笑った。
恐らく、2部リーグ前半の優秀選手の表彰であったのだろう。そしてこの表彰は思わぬ波紋を引き起こすことになる――。
(つづく)
■田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)など。最新刊は『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、
http://www.liberdade.com
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