沖縄で春季キャンプを張る球団は北海道日本ハム、千葉ロッテ、東北楽天、広島、巨人、横浜DeNA、阪神、東京ヤクルト、中日と9つに上る。かつてキャンプ地と言えば九州の宮崎と四国の高知が通り相場だっただけに隔世の感がある。

 

 理にかなった練習や高度な技術を見れば指導者や選手の目も肥える。高校野球において1999年と08年のセンバツで沖縄尚学が優勝、10年には興南が史上6校目(当時)となる春夏連覇を果たしたのは、それと無関係ではあるまい。

 

 プロ野球に目を転じると、かつては沖縄出身というだけで珍しがられたものだが、今では沖縄の高校を出た者だけで22人(17年)もいる。都道府県別統計データサイト「とどラン」によると16年のデータでは人口10万人あたりの沖縄県のプロ野球選手は1・90人で全国トップ。全国平均の3倍だった。

 

 2日前の15日、沖縄は米国統治から復帰して45年を迎えた。戦後初の沖縄代表として甲子園に出場した首里高はビニール袋に詰めた土を沖縄に持ち帰ることができなかった。植物検疫法に抵触したからだ。

 

 沖縄出身のプロ野球選手第1号と言えば広島や阪神などで活躍した安仁屋宗八である。沖縄高(現沖縄尚学)のエースとして62年夏、沖縄勢では初めて南九州大会を制して甲子園にコマを進めた。

 

 卒業後は地元の社会人野球チーム琉球煙草に進み、63年夏、大分鉄道管理局の補強選手として後楽園の土を踏んだ。初戦の日本生命戦で3回無失点の好投を演じた。本人によれば得意のシュートで「バットを4本くらいへし折った」。この好投に目を付けたのが東映のスカウト瓜生勝である。当時はプロ野球のシーズン中でも社会人の選手は会社をやめればプロ入りすることができた。だが安仁屋は東映には入らなかった。身を投じたのは広島だった。

 

 何があったのか。理由は概ねこうだ。当時、日本本土から沖縄に行くにはパスポートが必要だった。その頃、ほとんどの日本人はパスポートを有しておらず、申請には1カ月くらいかかった。一方、米国人ならすぐ沖縄に入れる。広島はフィーバー平山(智)という日系米国人の外野手をスカウトに仕立てて沖縄に送り込んだのだ。本土返還8年前の出来事。沖縄とプロ野球の物語は、そこから始まったのである。

 

<この原稿は17年5月17日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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