時計の針は午後4時を回っていた。時間の経過とともに秋天は翳り、大気はどんどん冷えていく。ヤクルトの広岡達朗監督は6回まで阪急打線を無失点に封じていた先発・松岡弘の肩の状態を案じていた。それでなくともこのシリーズ、4度目の登板だ。「何をいつまでごちゃごちゃやっているんだ」。とうに腹わたは煮えくり返っていた。

 

 1978年の日本シリーズは阪急の4連覇が焦点になっていた。3勝3敗で迎えた10月22日の第7戦、舞台は後楽園球場。6回裏に大杉勝男のホームランが飛び出し、2対0。だが、このホームランはどうにも怪しかった。線審はレフトポールの上空を通過したと判断したが、その判定にはかなり無理があった。今ならビデオ判定の対象だろう。

 

 阪急を率いる上田利治はレフトポール下まで走り、揚げ句、全選手をベンチに引き揚げさせた。放棄試合も辞さず、との姿勢である。ついにはコミッショナーの金子鋭が仲裁に乗り出した。「こんなに(試合再開を)お願いしても聞いてくれんのか」「(審判を)代えてくれたらやる」

 

 待ちぼうけを食わされる方はたまったもんじゃない。中断は1時間19分にも及んだ。その間、松岡はラバーコートに身を包んでのキャッチボールで肩を温め、再開に備えていた。「僕は“敵ながらあっぱれ!!”という思いで抗議を見守っていたんですよ」。意外なセリフだった。「名将が、それこそ監督生命をかけて抗議を行っている。その必死な姿を見ているうちに“どうぞ納得するまでおやりください”という気持ちになりましたね」

 

 勝負事は何が幸いするかわからない。1時間19分の中断は「精も根も尽き果てていた」松岡に“慈雨”をもたらせた。「適度の休養と上田さんの“熱血”に負けちゃいけないとの思い。僕は失いかけていた体力と精神力を、あの抗議でもらった。それが完封につながったと思っています」

 

 このシリーズ4勝全てに貢献したものの、MVPに選ばれたのは松岡ではなく大杉だった。「あのホームランがなければ僕がMVP。本当に余計なホームランでしたよ」と松岡は笑う。1日に他界した上田と大杉の間には積もる話もあるだろう。天界での対話なら気兼ねはいらない。個人的には、あの猛抗議は情熱家ゆえの逸脱だったと解釈している。やむにやまれぬ勝負師魂。そして知性派が見せたもう一つの貌(かお)。そこが好きだった。合掌。

 

<この原稿は2017年7月5日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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