1707ch1二宮清純: 多川選手は右上肢機能障がいで生まれつき右前腕部が短い。そのことで日常に不便を感じたことはなかったでしょうか?

多川知希: あまりないですね。工夫次第で何でもできるので。できない時は「できません」と正直に話していました。ただ何でもお願いしてしまうと"コイツ、頑張っていないな"と思われるので嫌だった。だから自分にできることは最大限でやって、できないことをお願いするようにしていました。

 

伊藤数子: なるほど。ところで多川選手の座右の銘は「万事全力」だと記事などで拝見しましたが、そこにも通じるんですね。

多川: そうですね。僕が一生懸命やっていることを他の人にわかってもらわないと、本当に困っている時に助けてくれる人が少なくなってしまう。できるかできないかは別にしてなんでも全力でやる。まずはそうしないといけないかなと思っています

 

二宮: 多くの国際大会に出場して、これまでいろいろな国を訪れた経験があると思います。海外と比べて日本で不便を感じることはないですか?

多川: 僕自身はあまり感じないですね。これは、国内外の問題とは違うのですが、世の中が右主体のものが多いと思いますね。僕は右の手の先がないので、感じます。例えばカメラのシャッターや駅の改札でICカードを読み取る箇所も右側についています。押せないわけではないので特別不便と感じるわけではないのですが......。

 

伊藤: ところで多川選手が陸上を始めたのは、中学で陸上部に入ってからだと伺いました。

多川: その頃はパラリンピックの世界を知らず部活で陸上をやっていました。ただ上を目指そうという意欲もなく、今ほど情熱を注いでいたわけでもなかったんです。友人と楽しくやっていて、部活が休みと聞いたら「ラッキー」と喜ぶようなタイプでしたね(笑)。中学は砲丸投げ、高校はやり投げをやっていました。高校では県で9番、10番くらいで、関東大会に出場できるレベルではありませんでした。今ぐらいの情熱があれば、記録はもう少しは伸びたかもしれませんが(笑)。

 

 投てきから短距離種目へ

 

二宮: それで大学に入ってからも陸上を?

多川: 大学に入って、スポーツをやろうと考えた時に中高の部活では陸上をやっていたので、そのまま続けることにしました。ただ種目に関しては、やり投げをやるには道具も場所も必要です。そういった練習環境を考えて、投てきではなく短距離種目に転向しました。元々、高校時代はリレーの選手でもありましたし、走るのも決して遅いわけではなかったんです。

 

二宮: でも投てき種目もできたのであれば混成競技もできますね。

多川: 跳躍がちょっと苦手ですから、それは選択肢になかったです。

 

伊藤: そこからパラスポーツの大会に出たきっかけは何でしょうか?

多川: 親の勧めですね。全国障害者スポーツ大会の予選を兼ねたハマピックという大会に出たんです。そこでぶっちぎりの1位になることができました。活躍できたこともあって「楽しいな」と感じ、そこから本格的にパラスポーツの大会に出始めたんです。

 

伊藤: そこで勝ったことで、"この世界で戦ってみよう"と思ったんですね。現在所属している陸上クラブの「AC・KITA」に入られたのはいつですか?

多川: 大学在学中の2005年に入りました。当時の代表の方に「人と練習した方が伸びるよ」と誘ってもらったんです。

 

伊藤: 「AC・KITA」のユニホームは水色ですが、大会に行く度に選手の方が増えている気がします。

多川: 代表の方が独立して別のチームを立ち上げたので、今度は緑がどんどん増えてきていますね(笑)。

 

(第3回につづく)

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<多川知希(たがわ・ともき)プロフィール1707ch2

1986年2月6日、神奈川県生まれ。T47(上肢切断など)クラス。生まれつき右前腕部が短い障がいがある。神奈川県立希望ケ丘高校-早稲田大学-早稲田大学大学院。東京電力に勤めながら、東京都北区の陸上クラブAC・KITAで活動する。現在は同クラブでキャプテンを務めている。中学で陸上部に入り、競技生活をスタート。早稲田大学在学中の2008年に北京パラリンピックに出場。2012年ロンドンパラリピックでは100メートルで5位、4×100メートルリレーで4位と2種目で入賞を果たした。2014年インチョンアジアパラ競技大会では4×100メートルリレーでの金メダルを含む3個のメダルを手にした。2016年リオデジャネイロパラリンピックでは4×100メートルリレーで銅メダルを獲得した。身長177センチ、体重70キロ。


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