名手が名門を再建中だ。辻発彦新監督率いる埼玉西武ライオンズは前半戦を終えてパ・リーグ3位につけている。西武は3年連続でBクラス。昨年は12球団ワーストの101個の失策を記録した。辻は現役時代、不動のセカンドとして君臨した名手だ。セカンドとして史上最多8度のゴールデングラブ賞を受賞した。今季より古巣の再建を託された辻は、前に積極的に出る“攻めの守備”をチームに植え付けようとしている。78試合でチームの失策数は46個。拙守は改善の兆しが見えている。西武の黄金期を堅守で支えた辻の守備哲学を25年前の原稿で振り返ろう。

 

<この原稿は1992年2月20日号『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>

 

「辻さんは常々、僕に向かって“守備は好きにならないとうまくならない”と言うんです。それまではどっちかというと、守備は好かんなァ、早く練習おわらんかなァというタイプだったんですけど、一緒に練習をするようになって考え方が変わってきた。辻さんは“キヨよ、守備というものは、グラブの指先にまで神経通わさなあかんぞ”とも言ってくれたんです。名人じゃないと吐けない言葉ですよ」

 

 いつだったか、清原に真顔でそう語りかけられたことがある。守備というものは、グラブの指先にまで神経通わさなあかん――そのフレーズを耳にした時、大げさでなく背筋がゾクッとした。これほどプロフェッショナルの色に染められた言葉をそうたびたび耳にできるものではない。

 

 佐賀東高から日通浦和を経てドラフト2位で西武ライオンズに入団したのが1983年。当時、交際中だった節子夫人から「後になって悔いを残すより、プロで試してみたら? ダメだったら2人して働けばいいじゃない」と肩を叩かれたのがプロ入りに踏み切った動機だった。

 

 しかし、プロでメシを食うためには、まず一芸に秀でなければならない。辻は守備に磨きをかけることによって、首脳陣に自らの力をアピールしようと考えた。1年目のキャンプ、守備練習に必死になって取り組む姿が広岡監督の目に止まった。

 

 広岡は泥だらけのユニフォームの辻を呼び寄せ、一つの言葉を贈った。

 

「稽古とは、一から習い、十を知る。十より還る元のその一」

 

 辻が振り返る。

「とにかく巧いんです。しかも、口だけではなく実際にグラブを持ってお手本を示してくれるから、僕らは黙ってうなずくしかない。ケチョンケチョンに言われても何も反論できませんでした」

 

 ゴールデングラブ賞の受賞は‘88年以来、4年連続。守備範囲の広さ、ボールに対する反応の早さ、打球方向を読むカンの鋭さ……どれをとっても当代きってのセカンド・ベースマンである。昨シーズンの優勝についても森監督は「影のMVPは辻」といってはばからない。自らの守備哲学を、辻はこう説明する。

 

「僕は少年野球で教える時、必ず“前に出なさい、前に出なさい”と言います。では、なぜ“前へ出る”ことが大切なのか。それはバウンドの数が少なくなればなるほどイレギュラーの確率が低くなるからです。これはプロもアマチュアもかわらない野球の基本です」

 

 そして、こう続ける。

「試合中は絶えずボールに対して攻めるという気持ちが大切です。出だしの一歩で全てが決まるといっても過言ではない。難しいゴロの打球のコースを読むことによって簡単に処理する。だって、ピッチャーから“なんであのゴロ、ゲッツー取れないんだ”と思われるのって嫌でしょう。だからたとえエラーのランプがつこうが、僕はボールに対して攻撃的な姿勢で挑む。つまらないエラーは、気持ちが受け身になった時に限って飛び出すものなんです」

 

 グラブには人一倍、神経を使う。厳選されたメーカーからの支給品の中でも、ピタッと手に馴染むのはほんの数個。「弘法筆を選ばず」との格言は、こと辻に関しては当てはまらない。

 

「キャッチボールするとすぐに分かるんですが、硬くてもパタッと収まるグラブもあれば、遊びのあるグラブもある。遊びのあるグラブは試合ではまず使えないですね。気に入ったグラブが手に入ると、キャンプの時なんかテレビ観ながらでもずっと手にはめています。弘法筆を選ばず? いや僕は徹底して筆を選びますよ。だって本当に自分が気に入ったものじゃないと、プロではいいトレーニングができないはずですから」

 

 ほとんどの選手はグラブをベンチやグラウンドの上に寝かせて置くが、辻は常に指先を下にして立てるように置く。グラブの硬さは熱や湿気に左右されやすいからだ。「丸っこいままで使うには、この置き方がグラブにとって一番親切」と辻は事もなげに言い切る。筋金入りのプロフェッショナルの気概が、そのちょっとした言葉の端から透けて見える。

 

 辻というバイプレーヤーを語る時、必ず引き合いに出されるシーンがある。87年11月1日、ライオンズが2対1と1点リードで迎えたジャイアンツとの日本シリーズ第6戦の8回裏、2死一塁の場面。ライオンズの秋山の打球はセンター前に飛んだ。センターのクロマティが緩慢な動作でボールを処理する。といってもボールをこぼしたわけではない。クロマティは中継に入ったショートの川相に山なりのボールを返した。普通なら一、三塁の場面。ジャイアンツベンチの誰もがそう思った。

 

 ところが、あろうことか口を真一文字に結んだファーストランナーの辻は、ノンストップでサードベースを駆け抜け、ホームベースを目指している。ジャイアンツベンチは水を打ったようにシーンと静まり返った。

 

「暴走だ。殺せ!」

 

守備担当の土井正三コーチが金切り声を上げた時には、既に遅かった。右足からの猛烈なスライディング。セーフのコールを聞くや辻は両の拳を高々と宙に向かって突き上げた。

 

「あんなプレー考えられないことです。また、プロではあっちゃいけないことです。僕自身には会心のプレーでしたけど……」

 

 自らのプレーへの賛辞については素直に喜びつつも、同時にチクリと先方への批判を忘れないところが、いかにも職人肌のプレーヤーらしい。「辻には何もいうことがない」との森監督の常套句が、先のようなプレーを通じて身近なものに感じられる。

 

 その辻が浅黒い表情をほころばせながら、こんな話をする。

「最初の頃、僕のモデルのグラブは高校生とかにあまり売れないと言われていたんです。薄いグラブというのはボールの殺し方を知らない高校生にとっては痛いし、しかも柔らかいとなると長持ちしそうなイメージが薄いですからね。ところが最近、“辻さんが使っているモデルのグラブが欲しい”という高校生が急激に増えているというんです。僕のようなコツコツコツコツ、プレーする選手も評価してもらえる時代になったのかと思うと、今まで以上に頑張らないといけないなァという気になってきますね」

 

 地味ではあるが、陰気ではない。むしろ、陽気。「教えて下さい」と若手から頼まれると、嫌とはいえず、ついアドバイスを贈ってしまう。「普通のチームだったら自分のメシの食い上げになるようなことはしませんよ。でも僕は西武にずっと勝ってもらいたいから若手にアドバイスするんです」。そして辻は自分に言い聞かせるような口調で、こう続けた。

 

「僕はどう頑張っても清原にはなれません。でももしかすると清原も僕のような選手にはなれないかもしれない。いろんな個性が集まってチームができる。僕はそれがプロだと思っています」


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