1707kageura6 影浦心が通った愛媛県にある新田高校は柔道の名門として知られる。全国大会常連校であり、世界チャンピオンにも輝いた浅見八瑠奈、中矢力をはじめとした多くの名だたる柔道家を輩出している。影浦は地元で己を磨くことを決意したのだった。

 

「愛媛で強くなる」

 そう意気込んでいた影浦も中学時代から倍に増えた稽古量に最初は面食らったという。それでも元来の生真面目な性格で必死に食らいついていった。

 

 影浦の入学当時は柔道部長を務めていた浅見三喜夫(現副部長)は浅見八瑠奈の父であり、新田の一時代を築いてきた名指導者である。彼の目からは影浦はどう映っていたのか。

「体格の割に器用。身体の柔らかさがありました。担ぎ技もできるので面白いなと。性格的にも非常に真面目でしたね」

 

“強くなりたい”という純粋な想い。そこに向かってひたむきに努力できることは強くなるための条件でもある。浅見は影浦の人間性を高く評価しており、「柔道が強い人間が素晴らしい人間。これは必ずしもイコールではありません。でも人間的に素晴らしい選手は間違いなく強くなっていきます」と口にする。影浦との3年間を振り返り、「態度が変わるということを見たことがなかったですし、周りからもそういった話は聞きませんでした」とも証言する。

 

 東海大学柔男子柔道部監督の上水研一朗は影浦が1年の頃から目をつけていた。上水も影浦の“心”の部分を買っている。

「彼はとても素直です。高校時代、影浦に宿題を与えるとそれを一生懸命練習していたそうです。当時の監督に聞くと『先生から教わった技をずっとやっています』と言っていましたから」

 

 悔しさが残るインターハイの記憶

 

 影浦は高校3年間で愛媛、四国では優勝を経験したが、全国のタイトルまでは手にできなかった。全国高校総合体育大会(インターハイ)は3年間すべてに出場。愛媛ではほぼ敵なしの影浦でも全国では悔しさばかり味わった。

 

1707kageura1 1年時が初戦敗退。2年時には富山で行われたインターハイに出場した。影浦は初戦を優勢勝ちすると、2回戦以降は内股、払い巻き込み、内股返しと3連続一本勝ちを収めた。準決勝は沖縄尚学の神谷快と対戦。ここまで快進撃を続けていた影浦も序盤に小外刈りで技ありを取られる。何度か反撃を試みたがポイントは奪えなかった。そのまま優勢負けで試合は終わった。影浦にすれば自己最高の全国大会3位にも「悔しかった」という想いが充実感よりも上回ったという。

 

 だからこそ最終学年で迎えたインターハイには期するものがあった。前回大会は3位。周囲の期待も小さくはない。初戦を支え釣り込み足で一本勝ち。2回戦の相手である天理の西尾徹とは香川出身で中学時代から凌ぎを削ってきた。

 

 序盤にポイントを奪ったのは影浦だ。大外刈りで技あり。試合を優位に進められるはずだった。しかし、終了間際に隙を突かれ、肩固めで抑え込まれた。必死の抵抗も実らず、畳に寝たままで試合終了のブザーを聞いた。悔しさのあまりすぐには立ち上がれなかった。

 

「やはり優勝したかったので、相当気負っていたと思います。“勝たないとダメだ”と考え過ぎていました」

 強い気持ちは硬さとなって現れた。焦りや不安が余裕を奪っていた。まさかのベスト16止まり。ショックは大きかった。

 

 その日、会場に訪れていた上水も敗戦後の影浦の姿を見て驚いたという。

「声を掛けられないほど泣いて悔しがっていました。普段はボーッとしているように見えるけど、試合に懸ける気持ち、熱さが伝わってきましたね」

 

 全国制覇には届かなかったものの、「人間的に一番成長できた3年間でした」と新田での高校生活を振り返る。卒業前の2013年3月には全日本選手権地区予選を兼ねた四国選手権で高校生ながら優勝を果たし、4月の全日本選手権への出場を決めた。無差別級日本一を決める大会への出場切符を手土産に名門・東海大学へと進んだのだった。

 

(第4回につづく)

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1707kageuraPF3影浦心(かげうら・こころ)プロフィール>

1995年12月6日、愛媛県松山市生まれ。階級は100kg超級。松山西中-新田高-東海大。10歳で柔道を始める。新田高2年時には全国高校総合体育大会で3位に入った。東海大進学後、2年時には全日本ジュニア体重別選手権大会と講道館杯全日本柔道体重別選手権大会で3位になった。3年時はアジア選手権大会、グランプリ・デュッセルドルフと国際大会で優勝。講道館杯では2年連続3位だった。身長180cm、体重115kg。得意技は背負い投げ。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

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