皆さん、こんにちは! 今年の甲子園は話題豊富で見ていて楽しい大会でした。プロのスカウトの評価は「投手不作の年」と低いようですが、いいフォームで投げている投手が多くいたので、大学、社会人などで力をつけ、「不作」という評価を見返してもらいたいですね。


 個人的には広陵高(広島)の平元銀治郎投手を中学3年生の時に指導した経緯もあり応援していました。中学時代と比べてフォームが変わっていることが原因なのか、体にもボールにもキレがない印象を受けました。思い入れのある選手なので焦ってプロに進むよりも大学、社会人で力をつけて、プロに挑戦してもらいたいと思っています。

 

 今回はいつもお話ししていることですが、「指導者とは」というテーマを少し違った切り口で書いてみたいと思います。

 

 先日、ある独立リーグチームの社長からこんなことを聞かれました。

 

「ずっと選手たちを見ていて、26歳、27歳、28歳と年齢を重ねてくると野球というものが何なのか、ピッチングとは何か、バッテイングとは何かがわかってくるんじゃないかなという気がしています。本当ならその年齢に達するまでに野球を理解していて欲しいのですが……。田口さんはどう思いますか」

 

 私は以下のように答えたのですが、あくまで自分の経験に基づいたものだと前置きしておきましょう。

 

「社長、それはですね、年齢がある程度上になってくると指導者からあれやこれや言われなくなる。だから自分で考えられる環境ができるんです。それまでの野球人生は監督、コーチからああでもない、こうでもないと言われ、自分で考えることなく野球をやっていた選手がほとんどです。つまり余裕がなかったんです。それが自分で考える時間ができ始めると、自身で考えたことを練習で試すことができる。自身で考えたことは身につくのが早い。だから年齢が上がると野球が分かってきて、技術が向上するんじゃないかと考えています」

 

 これは実際に自分も選手を引退して打撃投手をやり始めたときに経験したことです。

 

「選手たちから選ばれる打撃投手になりたい」という気持ちを持って練習を始めたら、現役時代はクイックでしか投げられなくなっていたフォームが見る見るうちに良くなり、曲がらなくなっていたカーブも曲がるようになりました。打撃投手になって半年ぐらい経った頃でしょうか、当時の投手コーチからこんなことを言われました。「田口、お前フォームが良くなったな~」と。その時に実感したんです。ただ言われたことをやっていてはダメなんだな、と。大事なのは自分で考えることだと、28歳になって気付くことができました。

 

 これは私だけではなくて他の元プロ野球選手も引退して、誰からも教えてもらわなくなって「野球がわかった」人は沢山いると思います。

 

 正しい指導プロセス

 こんな話をすると必ず「"考えろ"と選手に言ってやらせたら何もしないんだよ」と反論される方がいます。そういう人たちには、それがなぜダメなのかを以下のように説明します。

 

「自分で考えることは大事です。でも考えるプロセスを知らない子供たちに"いきなり考えろ"というのはダメです。選手たちの思考レベルを把握して、まずは成功するための道筋を示してあげることから始める必要があります。もう一つ大切なのは、選手のモチベーションは何なのかを確認することです。"野球を上手になりたいと思う選手"と、"楽しめればいいと思う選手"では目標設定が大きく変わってきますから」

 

 そしてこう続けます。

 

「当たり前のことかもしれませんが、目指すべき大きな目標がまずあって、そのために何をするかという年間での目標、月単位での目標、毎日の目標を決定します。そして指導者はその確認をしてあげる。それが毎日のルーティンになってくると、子供たちは考えることを自分でできるようになります。
 そして考えることができる子に対して指導者がすることは確認だけで十分なんです。確認と会話が信頼関係を作り、関係性が良くなることで自立性も生まれる。そうすると自分で考える環境が完成する。そういう環境を作るのが指導者の役割です」

 

 この話を理解する指導者の方もいますが、中にはまるで理解を示さない方も……。「考えることができないから教えてやらないといけない」。こう考えているのは指導者として勉強不足としか言いようがありません。選手に「自分たちで考えてやれ」と言うなら、指導者自身も学ぶことが大切ですよね。

 

 技術指導だけに偏って、正しい指導プロレスを学ばない指導者がこれまでどれだけの選手を壊してきたのかと考えると恐ろしくなります。これからは教えられる側も指導者を選んでいく世の中になってほしいと願わずにはいられません。

 

 

1600314taguchi田口竜二(たぐち・りゅうじ)
1967年1月8日、広島県廿日市市出身。
1984年に都城高校(宮崎)のエースとして春夏甲子園出場。春はベスト4、夏はベスト16。ドラフト会議で南海ホークスから1位指名され、1985年に入団し、2005年退団。現在、株式会社白寿生科学研究所人材開拓グループ長としてセカンドキャリア支援を行なっている。

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