悪性リンパ腫のため闘病中のプロレスラー垣原賢人がさる8月14日、東京・後楽園ホールで「復帰戦」と銘打ったエキシビションマッチを行った。

 

 

 対戦相手はUWF時代の恩師・藤原喜明。68歳ながら、まだ現役を続けている。

 

 試合内容は10回タップを奪った藤原に軍配が上がった。試合後、藤原は「カッキー、元気じゃねぇか。オマエは治る」と闘病中の後輩を激励した。

 

 立会人として試合を見届けたUWFの先輩・山崎一夫は「僕も18、19の頃、あんな感じで毎日ボロボロにやられていた。あの痛みに耐えられれば、どんな痛みにも耐えられる」と妙なエールを送った。

 

 藤原といえば、プロレスファンにとってはレジェンドである。

 

 1972年、23歳で新日本プロレスに入門し、アントニオ猪木の付き人も努めた。「神様」と呼ばれたカール・ゴッチに師事して関節技などを学んだ。

 

 前座時代が長く、なかなかメインイベンターにはなれなかったが、その実力者ぶりは誰からも一目置かれていた。

 

 76年6月26日、猪木がボクシングの現役世界ヘビー級王者モハメド・アリと戦った際には、スパーリングパートナーを務めている。

 

 話はそれるが、アリ対猪木戦は試合前、ルールを巡って何度も両陣営が対立した。結果的に猪木は立ったままのキックを禁止されるのだが、それにはこういう理由があった。

 

「公開練習の時、藤原の首に分厚いゴムを巻き、その上に延髄斬りを叩きつけた。これがアリ陣営には強烈に映ったらしく、“冗談じゃない。あれは絶対にダメだ”となってしまったんです」

 

 これは猪木から直接聞いた話である。

 

 それはともかく、世紀の一戦のスパーリングパートナーに指名するぐらいだから、いかに猪木が藤原の実力を認めていたかが窺えよう。

 

 全盛期、“関節技の鬼”と呼ばれた藤原だが、病に対しても無敵というわけではなかった。

 

 2007年、胃がんがみつかり、手術を受けた。その後は抗がん剤治療を受けながらフリーランスとしてリングに上がり続けている。

 

 藤原が垣原の対戦要求に応じた背景には“同病相憐れむ”思いもあったのではないか。

 

 対戦後の垣原の感想はこうだった。

「がんを克服した人間の大きさを感じました。正直、70歳近いということでナメていた部分もあったのですが、組み合ってみたら威圧感がすごかった。もうメチャクチャ強かった。手も足も出なかったですね。何もできない自分が本当に悔しかった。(体は)骨太だし、肘や肩の使い方、あるいは騙すような動き。全てが超一流でした」

 

 この日、後楽園ホールには1000人を超える観客が詰めかけた。藤原が関節技を繰り出すたびにオーッという声が上がった。関節技職人の技術を堪能しているかのようだった。

 

 この11月でデビュー45年を迎える。いくつになっても枯れない魅力が、この人にはある。

 

<この原稿は『サンデー毎日』2017年9月3日号に掲載されたものです>

 


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