この日、伊達はひとつの作戦を立ててゲームに臨んだ。グラフが得意とするフォアハンドを封じようというものである。伊達はいったんグラフのオープン・スペースにストロークを配し、バックハンドでしか対応できないスペースを作っておいて、そこに精度の高いバックハンドでのクロスやフォアハンドでのダウン・ザ・ラインを狙い打った。第一セットの後半には、これがことごとく功を奏した。

 

<この原稿は1996年7月号『月刊現代』(講談社)に掲載されたものです>

 

 甘露寺氏は、この作戦を次のように分析する。

「グラフは回り込んで打つフォアが抜群に巧い。回り込まれて打たれると、ボールがどっちにくるか分からないんです。ラケットも見えないですしね。グラフはこれがあるから世界一でいられる。頭では理解していても、それを封じることはなかなかできない。伊達さんはそれを見事にやってのけたということでしょう」

 

 それにしても、この日、伊達はダウン・ザ・ラインで何本エースを取ったことだろう。サイドラインとほぼ平行の軌道を描くこのショットはネットの外側を通過するため、手許が少しでも狂うとミス・ショットになる可能性が高い。参考までに言えば、ネットの高さはセンターが三フィート(約〇・九一メートル)であるのに対し、サイドは三・五フィート(約一・〇七メートル)。約十六センチの差を体で認識しておかないと、反対に手痛いしっぺ返しをくってしまうことになる。

 

 かつて、甘露寺氏は、伊達に、「なぜ、もっとダウン・ザ・ラインを使わないのか?」と訊ねたことがある。

 

 返ってきたセリフは、「あまり好きじゃない」というものだった。

 

 少女の頃からベースラインでプレーすることの多かった伊達にすれば、ギャンブル性の高いダウン・ザ・ラインは馴染みの薄い武器だったのかもしれない。

 

 甘露寺氏は続ける。

「人間の本能として、どうしても空いているスペースに走ろうとするもの。するとオープンコートでの戦いになるのです。ところが、この日、伊達さんはダウン・ザ・ラインを続けて打つことがあった。さしものグラフも、まさか二回もくるとは思わなかったでしょう」

 

 フォアハンドでのストロークを得意とするグラフだが、バックハンドもワールドクラスの威力を秘めている。甘露寺氏によれば、そのボールはスライスのかかったいやらしい性質だという。つまり、フォアハンドを封じたといっても、それで勝算が立つようなヤワな相手ではないのである。

 

 伊達はこの「スライスのかかったいやらしい性質のボール」を、この日は雑作もなくダウン・ザ・ラインで切り返した。サイドスピンを巧みに殺したうえで、コントロールよくサイドライン付近に打ち返した。普通、厳しいボールを処理すると、どうしても甘いストロークになってしまうものだが、この日の伊達は難易度にのしをつけて相手コートにお返しした。時間を忘れさせる質の高いゲームになったのは、そのためである。

 

 再び甘露寺氏――。

「クロスのボールをダウン・ザ・ラインで切り返すのは難しいんです。うまく距離を測らないといけないし、ラケットの面の角度を変えないといけませんから。しかし、体力で劣る日本人が世界の舞台で勝つには、このショットをマスターするしかない。これがあれば相手を走らせることによって、疲れさせることができるんです。走りながらでは、どんないい選手でも狙ったところへはそうはボールを返せないでしょう」

 

 第一セット、0-5という窮地に立たされながらも逆襲に成功した伊達は、しかし、第二セットを3-6で落とす。第一セット、異国の地で赤っ恥をかかされたグラフは、これで勢いに乗るかと思われた。グラフからすれば伊達といえども、これまで六度戦い、十三セットのうち、わずか一セットしか奪われたことのない相手なのである。

 

 ファイナルセットを迎える前、グラフはクラウス・ホフセス監督にこう言っている。

 

「大丈夫よ。ここで負けたりなんかしないわよ。いつもどおりにやればね」

 

 世界のトップの条件

 

 奇跡はもう間近に迫っていた。ファイナルセット、第22ゲーム。

 

 伊達は最初のポイントを下がりながらのダウン・ザ・ラインでゲットする。これは二本続けて同じコースに打ち込んだもの。この執拗な攻めにグラフの足はついていくことができなかった。

 

 伊達はサービスでもポイントを重ね、いよいよマッチポイント。グラフのフォアがネットにかかった瞬間、死闘にピリオドがうたれた。

 

 勝った伊達は、「テニス人生の中で一番といっていい試合。私ひとりの力ではここまで頑張れなかった。監督、コーチ、そして応援してくれた皆さんのおかげです」と、こぼれんばかりの笑みを浮かべて話した。

 

 一方、敗れたグラフは、「キミコを攻めきれず、チャンスでミスを重ねてしまった。今日のプレーには満足していません。がっかりしています」というコメントを残し、足早に競技場を去って行った。

 

 グラフは自らの不甲斐なさを悔いることで女王の威厳をかろうじて保ったが、この日ばかりは、“Rising Sun”というニックネームの日本人プレーヤーの引き立て役に過ぎなかった。

 

 ボールが弾み始める瞬間に打つ「ライジング・ショット」で名を売り、攻防が一体となったような際立ったボールの処理能力でワールドクラスの仲間入りを果たした伊達公子は、このグラフ戦で証明された精巧なダウン・ザ・ラインと威力を増したサービスをマスターして、さらにグレードアップした観がある。

 

 だがボールが沈むクレーコート、スリップするグラスコートではどう戦うのか。連戦での体力面に不安はないのか。ネットプレーは大丈夫か。グランドスラムの頂点に立つには、まだまだ越えなければならない壁がいくつもある。

 

 今回、女王を倒したとはいっても、それまでに六度も敗れている。伊達をフィルターにしてしか、「世界」との距離を測れなかった私たちは、確実に頂点が近づいていることを知りつつも決して楽観はしていない。

 

「キミコは世界のトップになる可能性を秘めている」

 

 そう語るグラフは、戒めも忘れなかった。

 

「ただし、クレーのフランスや、グラスのウィンブルドンに勝てればだけど……」

 

(おわり)


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