サッカー日本代表はここ数年、主にポゼッションサッカーで世界と戦ってきた。しかし、2015年から代表の指揮を執るヴァイッド・ハリルホジッチ監督はカウンターサッカーを標榜する。今年9月に行われた日本代表メンバー発表の席でポゼッションサッカーの無意味さを“講義”したほどだ。ハリルホジッチは日本のサッカーを180度変えようと試みている。サッカー後進国の日本は、これまで多くの外国人指導者の意見に耳を傾けてきた。ドイツ、オランダ、ブラジルなど強豪国の指導者から教えを受けた。日本サッカーの発展に貢献した“恩人たち”にフォーカスした4年前の原稿を読み返そう。

 

<この原稿は2013年4月6日号『週刊現代』(講談社)を一部再構成したものです>

 

 日本サッカーの発展に貢献した外国人の恩人を3人挙げろと言われれば、私は次の名前を挙げる。

 

 デットマール・クラマー、ハンス・オフト、ジーコ――。

 

 まずはドイツ人のクラマーだが、彼こそは日本サッカーの骨格をつくった人物である。その功績から「日本サッカーの父」とも呼ばれる。

 

 1960年に日本代表コーチに就任したクラマーは、その卓越した指導力でチームを64年東京五輪ベスト8に導いた。この経験が68年メキシコ五輪の銅メダルに結実したのである。

 

 クラマーの通訳を務めた岡野俊一郎(元日本サッカー協会会長)は、日本サッカーの恩人を評して、こう語っている。

「それまで日本のサッカーが経験したことのない理論的な教え方を、身をもって示し、日本のサッカーの基礎をつくり、軌道に乗せ、将来への明るい希望を与えてくれた」(『デットマール・クラマー』中条一雄・ベースボール・マガジン社より)

 

 またクラマーは、日本サッカーが永続的に発展するには「強いチーム同士が戦うリーグ戦」は欠かせないとし、これが元で65年に日本サッカーリーグがスタートした。同リーグは93年に地域密着型のJリーグに姿を変えるまで27年間に渡って続いた。

 

 W杯出場のステップボードとなったオフトの戦術

 

 2人目はオランダ人のオフトだ。クラマーが「日本サッカーの父」なら、オフトは「中興の祖」か。

 

 日本代表初の外国人監督である彼は、日本サッカーの近代化に大きな力を発揮した。

 

 ディシプリン、アイコンタクト、スモール・フィールド、コーチング、ディシジョン・スピード――。今なら少年サッカーの現場でも用いられているような初歩的なキーワードを最初に、この国のサッカーに浸透させた指導者こそオフトだった。

 

 たとえばスモール・フィールドとはFWと最終ラインの距離を常に35メートル以内におさめることを指す。近代サッカーにおいて選手間の連動は不可欠であり、それはコンパクトな陣形を保つことで初めて容易になる。オフトはこうした約束の重要性を選手に丁寧に説き、効率的な練習を通して実践した。

 

 代表監督就任当初、オフトと事あるごとに衝突したのが司令塔のラモス瑠偉である。ブラジルから来日し、代表選手になるため国籍を変更した彼には「日本のサッカーはオレが一番よくわかっている」というプライドがあった。

 

 しかし、オフトは誰に対しても特別扱いをしなかった。結果が出れば選手はついてくる。やがてオフトとラモスは和解し、誰よりも互いを理解するようになる。

 

 残念ながらオフトジャパンは“ドーハの悲劇”により、アメリカW杯出場の夢は実現できなかったものの、その後のW杯6大会連続出場のステップボードとなった。

 

 ドーハ・アルアリスタジアム。芝の上で顔を覆ってうずくまるラモスに手を差し伸べたのもオフトだった。

 

 超一流が示した日本サッカーの行く末

 

 3人目はJリーグの立役者ジーコだ。91年5月、世界的なビッグチームでプレーし、ブラジルの初代スポーツ庁長官まで務めた男が日本のアマチュアチームである住友金属工業蹴球団(鹿島アントラーズの前身)でプレーすると決まった時の驚きは、ちょっと他にたとえようがなかった。

 

 もちろん93年にスタートするJリーグをにらんでのものではあったが、ジーコ獲得のニュースは海外にまで伝えられた。

 

 忘れもしない、93年5月16日、ジーコ率いる鹿島は名古屋グランパスを5対0で撃破し、その余勢を駆ってファースト・ステージを制するのである。ジーコは開幕戦でいきなりハットトリックを決め、健在ぶりを印象付けた。

 

 プレーヤーのみならず指導者としてのジーコの資質に目を付けたのが、当時のJリーグチェアマン・川淵三郎(現日本サッカー協会最高顧問)である。

「あれはJリーグができる前のことです。アントラーズはイタリアに遠征し、8対1と大敗した。そこで監督の宮本征勝が事実上、指揮権をジーコに渡した。それからですよ、アントラーズが生まれ変わったのは……」

 

 2002年、協会会長に就任した川淵がジーコを代表監督に指名したのは言うまでもない。指揮を執った06年ドイツW杯は一次リーグで敗退したものの、ジーコもまた日本サッカーの発展を語るうえでは抜きにすることのできない恩人のひとりである。


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