このシリーズの1回目に書いた、安永聡太郎にとって2度目のスペイン移籍――ガリシア州フェロールでの生活は半年で終わることになった。

 

 安永はこの街のクラブ、ラシン・デ・フェロールで、フォワードの一角として12試合に出場、1得点を挙げていた。得点数だけ見ると物足りない数字ではあるが、前線を献身的に動き回る彼は、監督、地元メディアから高い評価を受けていた。

 

 安永を阻んだのは、外国人枠だった。

「半年終わった時点で、クラブからは“契約を延長しましょう”という話をもらっていた。やったーと思っていたら、ごっついセンターフォワードが結構な複雑骨折をした。それでそのシーズンが駄目になった」

 

 フェロールは4-4-2というシステムを採用していた。前線の2人のうち、1人はポストプレーの得意な選手を置き、サイドからボールを集めるという、スペインリーグ2部によくある戦術だった。その中で大型のセンターフォワードは必須だった。

 

「スペイン人の中にでかい選手がいないから、外国人でそういう選手を獲りたいという話になった」

 

 さらに――。

 

「(イケチュク・)ウチェという18歳の選手がいた。ぼくが加入するとき、ウチェを外して(外国人枠として)入っていた。それでウチェは半年間試合に出られなかった。代理人がぶつぶつ言い始めたらしくて、外国人枠を1つ使わなくてはならなかった」

 

 ウチェは将来有望な、ナイジェリア人フォワードだった。後にスペインリーグのビジャレアルで広く名前を知られ、ナイジェリア代表としてもアフリカネイションズカップに出場している。

 

 そこでEU国籍を持たない安永は外国人枠から押し出されることになったのだ。

「他のクラブに移籍しようとしても、冬のマーケットでは5試合以上出ている選手は同じカテゴリーに移籍できないという規定があった。1部に引っ張られるか、カテゴリーを落とすか。どちらも無理だから、(日本に)戻るしかないねと。ぼくとしては残りたかった。リェイダのときよりも友だちがいっぱいできていたし、飯も旨かった」

 

 あの街、楽しかったんですよと、噛みしめるように言った。

 

 奮い立たない自分がいた

 

 2003年、後ろ髪を引かれる思いで安永は横浜F・マリノスに復帰した。この年のリーグ戦出場は8試合にとどまっている。

「今にして思えば、全部人のせいにしていた。まず日本に帰りたくなかったという言い訳があるでしょ。そして戻ったタイミングでクボタツ、マルキーニョスが来た。自分はサブ争いなんです。それで気持ちの浮き沈みが激しかった」

 

 “クボタツ”とは久保竜彦のことだ。

 

 前シーズン、久保の所属していたサンフレッチェ広島がJ2に降格。日本代表にも選ばれていた左利きのフォワードには獲得を希望するクラブが殺到した。久保はその中から岡田武史が監督に就任した横浜F・マリノスを選んでいた。

 

 2003年、横浜F・マリノスは勝利を重ね、第1、第2ステージを制し、完全優勝――。

 

「岡田さんの元で勉強させてもらって練習しながら、同じ年のクボタツをすげーなって思っていた。そのときは悔しくなかった。そんな自分に気がついたときに、(代表に選ばれることは)もうねぇなと思った」

 

 クラブでのプレーを認められた久保は、ジーコの率いる日本代表の中心選手となっていた。

 

「こいつからチームでレギュラーを獲っちゃえば、自分が代表に行ける可能性があるのに、気持ちがそっちに向かない。こいつマジですげーと思っている。誰かとそんな話をしたことがあった。それを聞いた、松田直樹に“お前、サッカーやめろよ”って言われた。“お前、同じ年の選手のことを認めてんじゃねぇ。認めるぐらいならやめちまえ”と。それでカチンと来て、ちょっと喧嘩したんだけれど、冷静になったら、そりゃそうだなと。そっから自分を奮い立たせようと思ったけど、奮い立たない自分がいた」

 

 そしてこうも言った。

「日本ではサッカーに集中できなかった。逃げる場所がいっぱいあったから。プロになってから継続して真剣にサッカーに打ち込んでいた期間は、リェイダとフェロールのときだけですよ」

 

 

 安永は自嘲気味に笑った。

 

 2002年9月、フェロールで安永に会ったとき、サッカーが好きだという気持ちを体中から発散させていた。そして、同じチームには中村俊輔のように1人で黙々と練習していた選手がいたのに、自分はできなかったと過去を悔いていた。どうして帰国した後、その気持ちを持ち続けられなかったのか――。

 

「弱いんでしょ。自分が本当に弱いと思うもの。(現実と)向き合えなかったというか、すぐに逃げていた。言い訳してばっかりだった。スペインに行くとみんなが(必死でサッカーを)やるでしょ。やらない奴が馬鹿みたいな。やって当たり前の世界。トレーニングから(激しく)バチーッと行く。その中でどう生き残っていくか。そこに放り込まれるとやっていける。でも、日本に戻ると、ドーンと行けなくなるんだよね、ぼくは。弱さ、継続性のなさ、が自分の一番の課題だと思っている」

 

 2004年シーズン、横浜F・マリノスは第1ステージを優勝。史上初の3ステージ連覇。第2ステージは6位に終わったものの、チャンピオンシップで浦和レッズを破り年間優勝――。

 

 安永のリーグ戦出場は7試合のみ。もはやこのクラブでの居場所はなかった。

 

 そして柏レイソルに移籍することになった。しかし、ここでも輝きを取り戻すことができなかった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。最新刊は『ドライチ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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