日本対ハイチの大味な一戦から半日後、アメリカ大陸各地ではW杯最終予選のヒリつくような激闘が繰り広げられた。デュエルなる言葉が大好きな我らが日本代表監督ならば、うっとりしてしまうであろう死闘ばかりだった。

 

 恥ずかしながら、わたしは日本が初めてW杯に出場した98年、ジャマイカならば勝てる、いや、勝たなければいけないと吹聴してしまった人間である。

 

 無知にもほどがあった。

 

 今回のW杯予選、わたしは生まれて初めて北中米カリブ海の予選を数多く見ることができた。日本よりもテクニカルなチームはほぼない。けれども、日本が勝てる、と思わせてくれるチームもほぼなかった。

 

 例えていうなら、日本は道場できちんとレッスンを受けた格闘家で、パナマやホンジュラスはナイフや拳銃が用いられることのある戦いを生き抜いてきたストリート・ギャング。勝った時に得られるものと、負けた時に失うものの落差が、日本とはまるで違っていた。

 

 南米予選も、また然り。

 

 最終日を予選敗退ラインの6位で迎えたアルゼンチンは、エクアドルとのアウェーゲームに臨み、わずか開始1分で先制点を許す。その瞬間、選手やサンパオリ監督の全身を貫いたのは、まごうことなき恐怖だったはずだ。74年大会以来、11回連続で出場し、2度の世界一を経験している国が、本大会を逃す。帰国する彼らを待っているのは、最悪の犯罪者であってもなかなか経験できないほどの超絶バッシングである。

 

 そんなシチュエーションを、アルゼンチンは生き延びた。国民から批判されることも多かったメッシが、3連続ゴールをたたき込んで試合をひっくり返した。彼にとっては、生涯においても忘れられない一日になったことだろう。

 

「勝てば天国。負ければ地獄。それがサッカーが強くなっていくために必要なものなのに、日本には負けた時の地獄がない。そこをなんとかしたいよね」

 

 サッカー専門誌に勤めていたころ、セルジオ越後さんの言葉に感銘を受けて2人で連載を立ち上げた。それがいまも続く「天国と地獄」というコラムなのだが、あれから27年、日本にはいまだ地獄がないように思える。選手にとっては幸せなことかもしれない。ただし、W杯ではその代償を支払わなければならない。

 

 10月11日は、20年前、高田延彦対ヒクソン・グレイシーが対決した日でもある。あの日あの時、高田はほぼ何もできないまま敗れた。高田が弱かったから、ではない。くぐってきた修羅場の数と質が違いすぎたからだった、とわたしは思う。

 

 同じことが日本代表にダブる。

 

 監督に責任がないとは言わない。だが、誰に一番の責任があるかといえば、地獄を作ろうとしてこなかった我々自身である。アメリカ大陸から画面を通して伝わってきた“殺意”に、わたしは正直、打ちのめされている。

 

<この原稿は17年10月12日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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