中学の3年間で身長は180センチを超え、GKらしい体になった榎本達也は埼玉県の強豪校・浦和学院高校サッカー部に入部した。榎本は国民体育大会(国体)で大きな刺激を受けたのだった。

 

(2017年10月の原稿を再掲載しています)

 

 榎本が高校2年生時に話は遡る。国体の埼玉県選抜セレクションを受験したが、選抜落ち。この時、彼は「3年の時には絶対に選抜に選ばれる」と心に誓った。目標を定めたら後は、黙々とトレーニングをこなすのみ。

 

 そして迎えた1年後の県選抜セレクション。榎本は見事に合格を勝ち取った。この県選抜での活動が、榎本にプロを意識させたのだ。

 

「周囲にはうまい選手がたくさんいた。レベルの高い人たちと一緒にサッカーをするのがすごく楽しかった。もっと、自分もうまくなりたい、と向上心が一層、強くなった。国体メンバーに選ばれたことが上を目指すきっかけになったんです。3年の春先に横浜マリノスから誘いの話があると、顧問の先生から聞いていましたが、実際に決めたのは国体が終わってからです。10月が終わったあたりにマリノス行きを正式に決めました」

 

 国体終了後にマリノス以外には2クラブからオファーがあったが断った。ビッグクラブで“もっとうまくなりたい”との思いでマリノスを選んだ。1995年にはJリーグで優勝するなど名門中の名門。当時の正GKには日本代表の川口能活がいた。

 

 正GKは高い壁になるべき

 

 1997年に榎本はマリノスに加入した。所属選手は同じポジションの川口をはじめ、井原正巳、小村徳男、三浦文丈、松田直樹がおり、同期には中村俊輔がいた。「錚々たるメンバーだった」と榎本。この頃のJリーグはサテライト制を採用していた。マリノスはサテライトとトップチームの練習場所をわけていた。榎本は加入当初、サテライトに配属される。しかし、マリノスGK陣は次々にアクシデントに見舞われた。

 

 ここで榎本の回想――。

「GKは5人でトップチームには能活さんを含め2人。サテライトには僕を含め3人。ところが能活さんと僕以外のGKがケガをしてしまったんです。“トップのGKがいないから榎本が行け”と加入2カ月で僕もトップに上がったんです」

 

 高卒1年目の榎本は「何とかついていかないと」と必死で練習に明け暮れた。結局、この年、公式戦出場はなかった。それでも2年目にはAFCユース選手権のメンバーとしてU-19日本代表に選出された。榎本は正GKとしてゴールを守り、日本を準優勝に導く活躍を見せた。U-19日本代表は「マリノスでの練習の成果を試せる場所」だった。

 

 日本代表の川口の壁は厚く高かったためクラブでの出場機会はほとんどなかったが、U-19代表の実践経験で、自らが成長していることを感じられた。そして、2001年10月に川口が海外移籍。ここから榎本は正GKに指名される。

 

 当時の苦悩を榎本は吐露した。

「自分が試合に出ていない時は“この人を抜いてやろう”と上だけを見ていればいい。実力で抜いてしまえばいいんです。でも、上の立場になると自分を追い抜こうと必死になっている人を気にしながらも、自分はもっと高い山や壁にならないといけない。

 

 自分が出場し続けるためには彼らを上回り続けないと居場所はない。常に追われるんです。ポジションを渡さないためには、“自分の武器にもっと磨きをかけよう”“どうすればもっと質の高いプレーができるのか”と今まで以上に突き詰めました。その中で結果も残さないと簡単に序列を引っくり返されてしまいますから」

 

 川口が移籍してから5年2カ月。榎本は仲間と切磋琢磨しながら試合に出場した。2001年ナビスコ杯決勝はPK戦までもつれたが、榎本はPKを3つセーブする活躍でチームを優勝に導き、大会MVPに輝いた。2003年、2004年のリーグ連覇にも貢献した。2007年に環境を変えるため、ヴィッセル神戸に移籍した後の4年間も正GKとして活躍した。

 

 “怪我の功名”と思える謙虚さとタフさ

 

 2010年シーズンいっぱいで神戸との契約は満了となった。新天地はJ2の徳島ヴォルティス。J1での経験を買われた榎本は加入初年度に副キャプテンに任命された。突然の打診にも「年齢的にも30歳を過ぎていたし、人間的にもヴィッセルで成長させてもらったのであまり気にしなかった」と榎本。クラブの期待に応えるために快く副キャプテンを引き受けた。

 

 しかし――。

 

 加入から2カ月後、思いもよらぬアクシデントが彼を襲う。古巣・神戸との練習試合で榎本は左足アキレス腱断裂の重傷を負った。味方DFが胸で榎本にバックパスを送ったボールに反応しようと一歩踏み出した時にアキレス腱を切ってしまった。怪我を負った3、4時間後には、もう手術を受けていた。

 

 徳島には2年間在籍したが怪我の影響もあり、リーグ戦14試合出場にとどまった。「選手としては徳島時代が一番難しい時期だったのでは」と水を向けると榎本はこう答えた。

 

「悪くもありましたが、良くもあった。選手としても人としても成長できました。“そう簡単に、人生うまくはいかないな”と。パフォーマンスが戻らないまま徳島での生活は終わってしまったのですが、自然豊かな徳島で生活できたことは僕にとっても家族にとってもすごくよかった。近所には蓮の田んぼがたくさんあり、朝、起きると、家の電気に小さなカエルがついていたり(笑)。子供たちにとっても良い環境で生活できたのかな、と思います。僕の奥さんも“楽しかった”と言ってくれていることが嬉しい」

 

 また榎本は「この怪我をきっかけにプレースタイルを変えたんです」と口にする。以前まではフィジカル的な能力に頼ってプレーしている部分があった。だが、左足のアキレス腱を切ると左右のバランスはどうしても崩れてしまう。怪我以降、彼はより自分のポジショニング、味方へのコーチングに気を配り未然にピンチを防ぐようになったのだ。

 

 徳島での2年間を振り返り榎本は、ポツリとこう言った。

「アキレス腱を切ったのは、偶然じゃなくて必然だったと思うんです」

 

 彼は現在、FC東京アカデミーコーチを務めている。榎本は現役時代のプロとしての姿勢、怪我の苦しみ、プレースタイル変更などの経験は、後進の指導にどう生きているのだろうか。

 

(第4回につづく)

 

<榎本達也(えのもと・たつや)プロフィール>

1979年3月16日、東京都練馬区生まれ、埼玉県蕨市育ち。1歳年上の兄の影響でサッカーを始める。浦和学院高校卒業後、1997年に横浜マリノス(当時)に加入。98年にはU-19日本代表としてAFCユース選手権で準優勝を経験した。2002年には正GKとしてリーグ完全優勝を果たす。2007年以降はヴィッセル神戸、徳島ヴォルティス、栃木SC、FC東京でプレーし、16年シーズンで現役を引退。今年からFC東京アカデミーコーチを務めるとともに、ブラインドサッカー日本代表強化選手に選出された。Jリーグ通算290試合出場。身長190センチ、体重82キロ。

 

(文・写真/大木雄貴)

 


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