(写真:39年ぶりにマイスターシャーレを掲げた奥寺氏)

 J2横浜FCの会長兼スポーツディレクターの奥寺康彦が6日、都内で記者会見を行った。

 

 奥寺は日本人として初めてブンデスリーガでプレーした文字通りの“レジェンド”。左利きのウィングとして1977年、移籍1年目はケルンに所属し20試合で4ゴール。チームを優勝に導き、マイスターシャーレを掲げた。以降もブンデスリーガで活躍しシーズン合計234試合に出場し、26得点をマークした。その功績が称えられ、奥寺はブンデスリーガの国際的戦略の1つである「ブンデスリーガ・レジェンズツアー」において、ブンデスリーガ・レジェンドに選出された。

 

 ブンデスリーガ・レジェンドはブンデス1部で活躍し、リーガの発展に貢献したり、リーガの魅力を世界に向けて発信している人物が選出される。奥寺以外にアジア人ブンデスリーガ最多得点記録(通算308試合98ゴール)を保持する韓国人のチャ・ボングンらが選出されている。奥寺は会見冒頭で「チャ・ボングンとお互い協力し合い、もっとアジアにブンデスリーガを広めていきたい」と抱負を語った。

 

 奥寺のドイツ移籍のきっかけは日本代表が1977年夏に行った欧州合宿だった。20人の代表選手が5人4グループに分かれてドイツのプロ・アマチュアチームの練習に参加した。奥寺は現日本サッカー協会技術委員長の西野朗らとケルンの練習に参加した。奥寺のプレーが当時のケルンの指揮官、ヘネス・バイスバイラー監督の目に止まり「ウチでやらないか」と誘われた。

 

 オファーをもらった当時を振り返り、奥寺は「体が震えました」と語り、こう続けた。

「欧州サッカーと言えば、僕らにとっては雲の上のようなレベル。とても嬉しかったが、即答はできないのでまず日本に帰った。サッカー協会と古河電工サッカー部や、社長、そして家族に相談した。多くのサッカー関係者は“行ってこい、こんなチャンスはない”と尻を叩いてくれた。まあ、一番反対したのは家族です。だけど結局、行く決心をしたのはバイスバイラー監督の熱いラブコールでしたね。“オマエが必要だから是非、うちにこい”と、おっしゃっていただいたから決心しました」

 

 ドイツに渡ると初めは地元のメディアから「オマエ、サッカーできるのか?」という冷たい質問を浴びせられた。しかし、バイスバイラー監督に「まずはプレーでオマエを表現するんだ」と叱咤された。血の滲むような奥寺の努力があるからこそ、現在は多くの日本人がブンデスリーガでプレーできていると言っても過言ではない。

 

 長谷部誠や香川真司など日本代表の中心選手がドイツで結果を残しているが、先駆者としての奥寺の貢献もはかり知りない。Jリーグとブンデスリーガの架け橋的存在としてまだまだ先頭を走り続ける。

 

(写真・文/大木雄貴)